〔お知らせ〕当施設につきまして、耐震上の理由等により当面閉鎖となっているそうです。ご確認ください。(2015年12月11日追記)
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前回からの、旧陸軍桶川飛行学校の続きです。
厠から宿舎に戻り、宿舎の一号展示室から五号展示室までに展示された各資料を見学していきます。
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まず一号展示室です。
一号展示室では、桶川飛行学校における教育訓練写真や特別攻撃隊の資料などが展示されています。
桶川飛行学校は、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場として、太平洋戦争開戦前は陸軍のパイロット養成所でしたが、太平洋戦争末期には特攻隊の訓練が行われ、終戦間際には桶川飛行場から最初で最後の特攻機が飛び立っていきました。
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昭和15年5月19日、桶川飛行学校創立三周年を記念して読まれた式辞。
桶川飛行学校では、他の兵科から航空兵を希望してきた召集下士官、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官など推定1600名の航空兵を教育しました。
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一号展示室の中央には、九五式練習機、通称「赤トンボ」の模型が吊るされています。
訓練生たちは、この飛行機で操縦の基礎を学んだとされています。
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続いて二号展示室に移動します。
二号展示室は視聴覚室にもなっていて、桶川飛行学校の歩みと特別攻撃隊について映像で学ぶことができます。
昭和20年2月、悪化する戦況とともに、桶川飛行学校は特攻隊の基地となりました。
それまで、訓練のために多様な飛び方をしていた赤トンボが、急にエンジン全開の垂直降下の訓練だけを繰り返すようになったのです。
わずかな訓練の後、連合国軍が沖縄を攻撃した昭和20年4月、この基地から特攻隊12機が沖縄の海へ飛び立っていきました。
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桶川飛行場の特攻隊に与えられた飛行機は、九九式練習機、通称「赤トンボ」という練習機でした。
桶川飛行場の特攻隊は重い爆弾をつけたまま、実戦用でない飛行機で、アメリカ軍の高性能かつ多数の直掩機の迎撃をかいくぐり、アメリカ艦隊に突入することを要求されました。
戦争末期、もはや飛ばす飛行機もなくなってきた日本軍は、練習機すら特攻機として駆り出したのです。
練習機で性能差のあるアメリカ軍機動部隊の直掩機の攻撃をなんとかかわしたとしても、次に待っていたのはVT信管を備えた猛烈な対空砲火。
特攻隊は敵に迎撃の的を絞らせないために、降下、急降下、水平飛行という三方からアメリカ艦隊に突入しましたが、それでも一分間に9万発という猛烈な対空砲火を浴びたという。
避けようのない絶望的な死に向かっていった特攻隊員の恐怖と苦しみは、どれほどのものだったのか想像もつきません。
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神風特別攻撃隊は、初期(昭和19年)のころこそ戦果をあげたものの、航空機の質の低下、搭乗員の技量の低下、米軍の迎撃態勢の強化等悪条件が増えていくに従って効果的なものではなくなっていきます。
しかしそれでも、終戦まで特攻作戦は継続されました。
神風特別攻撃隊をはじめ、戦艦大和以下による水上特攻、人間魚雷・回天特別攻撃隊、爆弾付モーターボート「特攻艇・震洋」、有人ロケット弾「桜花」など、日本軍はあらゆる特攻作戦を実施しました。
特攻隊は、生きて帰ると当時は「特攻の面汚し」と呼ばれて蔑まれる等、軍から死ぬことをほぼ強制された部隊だったという。
人を兵器として扱う、人命軽視の許しがたい作戦ですが、しかし当時は連日の無差別空襲や沖縄戦等によって日々一般市民が殺害されている状況であり、敵の侵攻を防ぐ力がないからといって何もしないわけもいかなかったということもまた事実です。
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二号展示室のテレビの横には、古ぼけたベットが置かれています。
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かつてこの宿舎では、この見取り図のように20基の寝台が配置されていたようです。
この狭い部屋の中で、20人の航空志願兵が寝泊まりしていました。
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三号展示室は、陸軍航空隊についての学習室になっています。
特攻隊については最近映画化、ドラマ化した「永遠の0」が有名ですが、あちらは海軍の航空隊の物語です。
当時の日本に空軍はなく、陸軍と海軍は独自に航空隊を持っていました。
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三号展示室には、なぜか流し台があります。
当時のものなのか、それともこの施設は戦後市営住宅として使用されていたようなので、その時に作られたものなのかもしれません。
私は連れてきていた赤ちゃんのほ乳瓶を洗うのに使用させていただきました。
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三号展示室ではモールス信号が打てます。
ちょっと机が現代のものっぽくて周りから浮いてますね。
これは市営住宅の時の忘れ物と思われます。
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短点(短押し)「トン」と長点(長押し)「ツー」の組み合わせによって符号を作成し通信を行います。
打ってみましょう、
 ニ    イ   タ  カ    ヤ     マ    ノ    ホ  (濁点)  レ
-・-・  ・- -・ ・-・・ ・-- -・・-  ・・-- -・・  ・・ ---
真珠湾攻撃の合図ですね。
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三号展示室では「隼」「鐘馗」「飛燕」「疾風」「呑龍」などの陸軍機も紹介されています。
ちなみに有名な「零戦」は海軍の艦上戦闘機です。
海軍機よりも陸軍機の方が性能が良かったと言われています。
しかし陸軍機は海に落ちても海軍機のように水に浮かないため、海上で撃墜されることは死を意味していました。
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四号展示室は少年飛行兵の資料展示室になっています。
隼会や埼玉県少飛会等の会旗が展示されています。
航空機の操縦は高度な技術を要したため、若いうちからの訓練が必要であり、飛行学校には多数の少年兵が集められました。
当時の少年にとって、空を舞う航空隊は憧れであったであろうことは想像に難くない。
この時代に生まれていたら、私も飛行機に乗って空を飛んでみたかったかもしれません。
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五号展示室は航空機のプラモデル展示室になっています。
名前は知っていても形はわからない、当時の多種多様な航空機を学ぶことができます。
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五号展示室の隣にも、かつては部屋があったようですが、この部屋だけはなぜか崩壊が激しく骨組みだけの無惨な姿を晒しています。
桶川飛行学校は戦後、桶川市が床を張り仕切りをし、市営住宅として大陸からの引き揚げ者の住居として使用されたという。
その際に火災などもあったそうだから、こんなになってしまったのでしょう。
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昭和20年4月、桶川飛行場から沖縄へと飛び立っていった特攻兵12名。
練習機での特攻は、日本陸軍では初だったという。
ちなみに陸軍より早く特攻作戦をはじめた海軍は、海軍の練習機「白菊」による特攻を行っています。
写真の隊員のうち11名は敵艦隊に突入し戦死しましたが、一機だけは敵機の攻撃で撃墜され、それでもなんとか基地に帰還しました。
しかし基地に帰還した写真前列右から三番目の隊員は「おめおめと生きて帰ってきやがって、軍神、特攻の面汚しめ」と上官から怒鳴られたという。
練習機で無謀な特攻をさせておいて、そんな心無い言葉を上官がのたまう、それが当たり前だった時代がほんのちょっと昔にあったことを、私たちは忘れてはいけないと思います。
(訪問月2015年4月)