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茨城県笠間市にある、筑波海軍航空隊地下応急治療所と滑走路跡を訪問してきました。
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前回の地下戦闘指揮所からの続きです。
地下戦闘指揮所から出ると、スタッフの人からヘルメットと懐中電灯はそのままで、今度はブルーシートの左にある小道をまっすぐ進めと言われました。
その先に、最近になって発見されたという地下壕「地下応急治療所」があるのだという。
行ってみましょう。
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木々にロープを通して作られた森の道を少し歩いていくと、地中に小屋のようなものがありました。
あれでしょうか。
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入口は2.5mほど掘り下げられています。
急ごしらえの階段を下りていきます…
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中にかまぼこ型にコンクリートで固められた地下壕がありました。
こちらが「地下応急治療所」で、当時は薬瓶や包帯などが常備されていたそうです。
広さは16畳ほどで、地下戦闘指揮所に比べ丁寧に作られているのだという。
よって、空襲が激しくなる前、地下戦闘指揮所ができるより前の昭和19年ころ作られたのではないかと推測されています。
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奥の小窓に近寄ってみます。
土砂と土嚢によって外は見えません。
当時は採光用の窓だったようです。
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ふとその時、暗闇の中でなにやらもぞもぞと頭の上で気配を感じました。
んん?
なにか黒いものが…
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ゆっくり一歩退がり、懐中電灯の光をあててみると…

いました。小さいけれど大量のカマドウマです。
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さらにゆっくり下がってみると、天井一面カマドウマだらけじゃないですか。
カマドウマ好きにはたまらない光景ですね。
まあ毒をもっているわけでもなく、こいつらが何か悪いことをするわけでもないのでびっくりする必要もないですが、頭の上から大量に降ってこられても困るので写真撮影もそこそこに退散しました。
動かないカマドウマならまだしも、これがゴキブリやムカデだったら私も逃げ出します。
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地下応急治療所を出て、採光窓の外側に回って見るとこんな感じになっていました。
地下応急治療所は、2015年、つまり今年になって発見されたそうです。
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この他にも、この雑木林の中にひょっとしたらまだ地下壕が眠っているのかもしれませんね。
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地下戦闘指揮所・応急治療所を出て、ヘルメットと懐中電灯を返してから、先ほどやって来た道を戻っていくと、途中に「滑走路跡」と書かれた矢印板があります。
矢印板に従い、途中にある小さな交差点を右に曲がって、狭い道を進んでいきます。
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狭い道をまっすぐ進んだ突き当りが滑走路跡です。
今はただのアスファルトの道路ですが、かつてはここから筑波海軍航空隊に配備された零戦や紫電(海軍の局地戦闘機)が飛び立って行きました。
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滑走路は三角形の形に作られ、当時はこの滑走路を中心に広大な敷地が筑波海軍航空隊の基地として使用されていました。
つまり滑走路は基地の敷地のほんの一部だけですが、それでも歩くととても長いです。
筑波海軍航空隊がどれほど広大な基地だったのか実感させられます。
筑波海軍航空隊は面積が526.731坪で、東京ドーム約37.2個分の広さを有していたという。
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滑走路跡から友部駅に帰る途中、ちょうど筑波海軍航空隊の隊門から病院の敷地を挟んで反対側にあたる位置に、筑波海軍航空隊の慰霊碑がありました。
「筑波海軍航空隊ここにありき」
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筑波海軍航空隊で戦闘機搭乗の訓練を行い巣立っていった航空兵たちは、そのほとんどが南方で空に散り、また、戦争末期の沖縄戦でも、この基地から「筑波隊」として神風特別攻撃隊が出撃していきました。
家族に、娘に会うために生きるための戦いを続けた「永遠の0」の主人公、宮部久蔵もまた、終戦の日をまたずして特攻、未帰還となります。
かつて、家族と日々を幸せに過ごす、そんな当たり前のことが当たり前にできない時代がありました。
先人たちの築いた平和ですが、そこに至る過程を学ぶことで、よりその重みを感じることができると思います。
(訪問日2015年5月)