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岩手県盛岡市にある神社、盛岡八幡宮を訪問してきました。
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盛岡の総鎮守である盛岡八幡宮。
チャグチャグ馬コの行事とかで知られるこの神社の境内に、米内光政の像があるという。
米内光政は、盛岡市出身の第37代内閣総理大臣で、旧日本海軍軍人です。
像がどこにあるのかは知らないので、境内をあちこち歩きながら探してみます。
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米内光政は山本五十六井上成美とともに、太平洋戦争開戦前、海軍きっての非戦派「海軍三羽烏」「海軍左派トリオ」といわれ、対米開戦、日独伊三国軍事同盟締結に真っ向から反対した人物です。
真珠湾攻撃が行われる前年の昭和15年(1940年)、半年間内閣総理大臣を務め、この内閣は大日本帝国最後の親英米内閣といわれ、米内内閣が続いていたら対米開戦はなかっただろうと言われています。
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しかし、ナチス・ドイツがフランスに電撃的に侵攻し、降伏させたころ、米内内閣は親独、主戦派だった陸軍の手により潰されてしまいます。
時の陸軍大臣が単独辞任し、その後陸軍が米内内閣に陸軍大臣を出さなかったためです。
当時、陸軍大臣は現役将官でなければならず、陸軍が大臣を出さなければ内閣は組閣することができませんでした。
政治は軍に左右されていたのです。
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その単独辞任した陸軍大臣、畑俊六。
温厚で誠実だったとされる人物で、昭和天皇からの信頼も厚く、日中戦争などで暴走する陸軍の抑え役として期待されていました。
しかし、米内内閣では日独伊三国軍事同盟を締結できなかったため、畑俊六は陸軍の意向を受けて内閣を単独辞職してしまい、後任陸相も出さず米内内閣を瓦解させてしまいます。
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陸軍大臣がいないため総辞職した米内内閣のあとを引き継いだのは第二次近衛文麿内閣でしたが、もはや陸軍の暴走を抑えることはできず、日本陸軍はフランスの敗戦を契機にフランス領だったインドシナ半島北部に進駐、日独伊三国軍事同盟を締結し、太平洋戦争への道筋を作ってしまいます。
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結果、世界を敵に回した大日本帝国は太平洋戦争で敗戦。
戦後、戦前で最後の親米内閣を倒閣し、戦争への道を作ったとして、畑俊六はA級戦犯に指定され、戦争犯罪人として極東国際軍事裁判の法廷に立たされることになります。
そんな畑俊六の弁護側証言台に立ったのは、政権を潰された当の本人、米内光政でした。
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証言台に立った米内光政は、裁判で徹底的に畑を庇ったとされています。
検察側の証人尋問に対し、「知りません」「わかりません」「覚えていません」などの証言でのらりくらりかわし、初めから畑の有罪ありきで臨んでいた裁判長は、自分の政権を潰した畑を庇う米内を「こんな愚純な首相を見たことがない」と罵倒したという。
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そのおかげで畑俊六は死刑を免れ、終身禁錮の刑を受けますが、その六年後に仮釈放されます。
自分にも戦争犯罪追及の手が及ぶことをおそれ、戦犯の弁護をすることが難しかった時代に、それでも米内光政が畑俊六を命がけで弁護したのは、当時の陸相辞任は畑の意思でなく、陸軍という巨大な組織の中で、そう動くしかできなかったことを同じ軍人としてわかっていたからだといわれています。
畑は、この時の米内に対する恩義を、生涯忘れることはなかったという。
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畑俊六を極東国際軍事裁判でかばった後、米内光政はまもなく死去します。
畑が仮釈放されたとき、米内はすでにこの世の人ではありませんでした。
米内の死から12年後の昭和35年、米内の郷里、盛岡市の盛岡八幡宮の境内で彼の像が建てられることになります。
そして、その除幕式の直前に、年老いた畑俊六の姿が盛岡で目撃されています。
死刑を免れたとはいえ戦争犯罪人にされた畑は、人目を避けるように、黙々とこの像の周辺の草をむしっていたという。
米内光政の像の周辺を、そんなことを考えながら歩いていると、かつては政敵でもあった米内への恩義に少しでも報いるために、彼の像の下で黙々と草をむしる畑俊六の後ろ姿が、幻影のように浮かんでくるようでした。
(訪問月2015年5月)