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今回の訪問先は千代田区の千鳥ヶ淵さんぽみちです。
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ブログの題名が「帝都を歩く」なのに、帝都にとってもっとも肝心といえる皇居周辺を歩いていないのはどうなのかと思い、皇居北側にある千鳥ヶ淵と北の丸公園周辺を訪問してみました。
ちなみに北の丸公園は、住所が千代田区北の丸公園で公園名が北の丸公園。
公園名がそのまま住所名になっています。
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さて、現在地は警視庁麹町警察署の千鳥ヶ淵警備派出所から代官町通りを、首都高代官町IC方向へ少し歩いたところです。
代官町通りに沿って左手は堤塘になっており、左の階段を登れば堤塘の上を歩くことができます。
この堤塘の上は皇居外苑管理事務所から「千鳥ヶ淵さんぽみち」として指定されており、千鳥ヶ淵をぐるっと周回するモデルコースになっています。
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堤塘の上にはちょっとした広場があって、7基の石造り円形ベンチが不規則に置かれています。
一見すると使いにくそうなただのベンチなんですが、実はこれらは戦争遺跡です。
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ベンチの上には化粧板が付けられそんなに古くないようにも見えますが、側面を見るとかなり古く、また無骨な作りであることがわかります。
これはもともとベンチとして作られたものではなく、昭和19(1944)年、皇居及び周辺施設をB-29による空襲から防衛するために構築された高射機関砲の台座跡です。
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通常B-29に対する対空砲といえば高射砲が連想されますが、ここに配置されていたのは対空近接防御用に開発された「九八式高射機関砲」という機関砲であったという。
しかし九八式高射機関砲の射程距離は約1000mであり、10000mという高高度を飛行するB-29には効果があるとはいえず、しかも弾には高射砲のように時限信管があるわけではないので、当たらなかった弾が周辺の民家に落下し被害をもたらしてしまったといわれています。
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ちなみにここ千鳥ヶ淵陣地に配置されていた部隊は「近衛機関砲第一大隊」。
天皇の親衛隊である近衛師団隷下の部隊で、人員は約800名、皇居周辺の防空を担当していたという。
しかし高高度を飛来するB-29には、有効な迎撃を行うことができなかったようです。
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この7基の高射機関砲台座跡から、さらに堤塘の上を東に向かって歩いていきます。
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左手には千鳥ヶ淵が見えます。
そろそろ日が落ちる時間ですね。
隣接する代官町通りには街灯がありますが、千鳥ヶ淵さんぽみちには照明がないので日が落ちるとあっという間に暗くなってしまいます。
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左手の千鳥ヶ淵が首都高速に変わり、その向こう側に東京国立近代美術館工芸館の建物が見えてくる辺りまでくると、途中に道が二又に分岐する場所があります。
ここで右の道を行くと、堤塘を一段代官町通り側に降りていくことができます。
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堤塘の中腹あたりをそのまま東に歩いていくと、途中にロープで囲まれた一角があります。
ロープがなければ普通にスルーされそうなただの土手なんですが。
よく見ると真ん中の木と木の間に、わずかながらですがコンクリートの構造物が顔を出しているのがわかります。
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ここは先ほど紹介した近衛機関砲第一大隊の地下壕、地下防空陣地であった場所とのことです。
残念ながら地下壕の入り口は土に埋もれてしまっていて中を見ることができません。
近衛機関砲第一大隊は、この防空陣地に隠れながら機関砲を発射していたようです。
ちなみにこの場所は、環境省のホームページでも紹介されていません。
高射機関砲台座跡と違い国にとって封印したい場所なのか、ロープの端で小さな立入禁止の札が揺れていました。
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地下壕跡のある場所からは、首都高を挟んで北側に東京国立近代美術館工芸館が見えます。
北の丸公園の緑の中に突如として現れる左右対称、二階建て、赤レンガ造り、スレート葺き、ゴシック調の立派な洋館は、かなり目を惹きます。
この洋館は現在でこそ東京国立近代美術館工芸館として利用されていますが、もともとは明治43(1910)年、近衛師団の司令部庁舎として建築されたものです。
近衛師団は先ほど紹介した近衛機関砲第一大隊の原隊で、天皇の親衛隊として、全国から選抜された優秀な兵士で構成された師団であったという。
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首都高の上を通す橋を通って、東京国立近代美術館工芸館に向かいます。
近衛師団司令部庁舎は戦後、陸軍の解体に伴い取り壊しの計画もあったそうですが、昭和47(1972)年10月に国の重要文化財に指定されるとともに、その五年後の昭和52(1977)年に一部が改修され東京国立近代美術館工芸館として生まれ変わっています。
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この旧近衛師団司令部庁舎は、現在上映中の映画「日本のいちばん長い日」で取り上げられている『宮城事件』の一舞台になった場所です。
終戦の年の8月15日午前0時過ぎ、大日本帝国はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏する方針を固めていましたが、それをよしとせずあくまで徹底抗戦を主張する一部の陸軍将校がクーデターを起こした場所です。
反乱将校たちは当時の近衛師団長にクーデターへの参加を迫りましたが、近衛師団長はそれに同調しなかったため射殺されてしまいます。
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師団長を殺害した後、反乱将校たちは偽の師団長命令を発し、近衛歩兵第2連隊を用いて宮城(皇居)を占拠します。
反乱将校たちは日本の降伏(玉音放送)阻止のために宮中を占拠しますが、玉音盤の奪取と陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗し、最終的に鎮圧され反乱将校らは逮捕もしくは自殺する結果となります。
これによってクーデターは失敗し、日本の降伏は予定通り行われることとなりました。
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2つの原子爆弾が市街地に投下され、和平工作の頼みにしていたソビエト赤軍が宣戦布告してきた状況でもなお、徹底抗戦を主張した陸軍将校たち。
この時、現在進行形でアメリカ軍の無差別空襲やソビエト赤軍の攻撃で殺害されている市民のことを考えていたとは言えないような気がします。
守ることさえできない市民の命よりも軍の存続を優先していたような反乱将校たちのその姿に、当時の日本が如何に軍国主義であったのかが垣間見えるような気がします。
真に勇敢な日本軍人であったなら、軍の存続より市民の命を守ることを考えるべきではなかったでしょうか。
(訪問月2015年8月)