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「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」
太平洋戦争開戦時の大日本帝国海軍、連合艦隊司令長官山本五十六の名言です。
なるほど確かにそのとおりと頷ける名言ですが、実際にそれを実践するのはとても大変なことですね。
今回は、その山本五十六誕生を記念して造成された、新潟県長岡市にある「山本記念公園」を紹介します。
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JR長岡駅西口からおおむね徒歩7、8分の距離。
関東と越後を結ぶ三国街道の近くに、目的の山本記念公園はあります。
しかし山本記念公園は、公園といっても遊具があるわけでなく、あるのは一体の胸像と古びた一軒家だけという、どちらかというと町中の小広場といった感じの公園です。
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公園入り口にある「山本五十六誕生地記念公園記」碑。
山本記念公園は、山本五十六の生家、高野家があった地に整備された公園です。
山本五十六は明治17年(1884年)、長岡藩の儒学者の家であった高野家の六男として生まれました。
出生時、父親の高野貞吉が56歳であったことから高野五十六と名付けられたという。
高野五十六が海軍大尉であった大正2年(1913)、半年の間に父の高野貞吉と母の峰が亡くなると、3年後の大正5年(1916)、旧長岡藩家老山本家を継ぎ、以後は山本姓になります。
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その山本五十六の誕生地であることを記念するこの山本記念公園には、山本五十六の生家、高野家が建っています。
実際の高野家は太平洋戦争末期の昭和20年8月、米軍による大空襲で焼失してしまったため、この生家は復元です。
この家は中に入って見学することができるという。そう思って入ろうとしたのですが…
あれっ、玄関ドアに鍵がかかっている?
よく見ると玄関引き戸に南京錠がついているじゃありませんか。
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帝都からここまで雪の中をやって来て、中を見ずに帰れるかと色々調べていたところ、どうも鍵がかかっている時は記念公園向かいにある、こちらの染物店で鍵を借りられるらしいことが判明しました。
早速玄関を叩き、在宅していた家の方に事情を話して鍵をお借りします。
伺ったところ、普段は生家は開けているそうですが、この雪なので見学者はいないだろうと思って閉めていたそうです。
しかし私のような物好きもいるのでそうはいきません。
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お借りした鍵で玄関を開け、早速中に入ってみます。
当然ながら土足厳禁です。
正面には四畳半の部屋があり、机の上には芳名帳が置いてありました。
ここ3日くらい誰も書いていませんでしたので、ここで私が連続無記名記録をストップすることになりました。
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玄関右隣には六畳間があります。
復元とのことですが、昔の家という雰囲気は充分にあります。
室内には山本元帥の少年時代の写真など、山本五十六ゆかりのものが展示されています。
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同部屋には、『常在戦場』の揮毫が入った額が飾られています。
常在戦場は山本五十六元帥の座右の銘です。
簡単に言うと、平素からいつも戦場にいる心構えで事にあたれという意味です。
この常在戦場の精神の下、山本五十六率いる大日本帝国海軍連合艦隊は、太平洋戦争開戦から半年間破竹の進撃を続けました。
しかしながら、常勝は油断と驕りを生じ、日本海軍は開戦から半年後のミッドウェー海戦にて空母四隻を一挙に失う大敗北を喫してしまいます。
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こちらは山本五十六の位牌と、連合艦隊司令長官時の写真です。
山本五十六はミッドウェー海戦の翌年、太平洋戦争の天王山となった1943年の東部ニューギニア・ソロモン群島方面を巡る連合国軍との戦いの最中、前線を視察中のブーゲンビル島上空において、乗機の一式陸攻をアメリカ軍に撃墜され戦死してしまいます。
その死は日本国民に衝撃と悲しみを与え、国葬となりました。
皇族や華族ではない平民の国葬は、戦前ではこれが唯一の例とされています。
当時の日本にとって、その戦死がどれほど重要なものであったのかがわかります。
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その六畳間の奥に、さらにもうひとつ六畳間があります。
その部屋に、おそらく見たら誰もがぎょっとするであろう巨大な石膏製の胸像があります。
これは公園内にある山本五十六の青銅製胸像を造る際にとられた石膏像です。
かなりの大きさで、これがいきなり和室にドンと置いてあると不気味ですね。
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二つの六畳間を結ぶ廊下。なお左手の障子の向こうは外です。
現代的な感覚で考えると明らかに無駄スペースなんですが、昔の日本家屋ってだいたい外と部屋との間に中間スペースを設けていますね。
防寒的な意味でも必要だったのだと思われます。
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二階にも上がることができます。
ものすごく急な階段です。
なお二階には一度に三人以上は上がらないようにとの注意書きがありました。
建物の耐久的な意味で必要なのでしょうか?
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二階はとても天井が低く、身長のある人なら屈んで歩かなければならないほど。
屋根裏部屋と言っても差し支えないほどの天井の低さです。
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こちらは山本五十六の勉強部屋。
二畳という、物凄く狭い部屋です。
この小さな座卓で勉強し、当時帝国大学より難しいと言われた海軍大学校に入ったんですね。
当時は現在よりも、出自というものがモノをいった時代です。
裕福な家庭の生まれでなくても、努力と勤勉によってどうにでもなるのだということを教えてくれます。
もっとも、努力と勤勉が一番難しいのですが。
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生家の向かいには、山本五十六の青銅製胸像が建っています。
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この山本五十六の胸像は、長官が戦死した年である1943年12月8日に土浦海軍航空隊で作られたコンクリート製全身像をもとにして造られたものです。
太平洋戦争の敗戦後、日本海軍の実質的な指揮官であり、真珠湾攻撃を遂行した山本五十六の全身像が連合国軍によって汚されることを怖れた関係者たちは、土浦のコンクリート製像を上半身と下半身の二つに分離し、上半身を霞ヶ浦の湖底に沈めました。
その上半身は偶然、昭和23年に発見され、その後山本五十六の郷里であるここ長岡に置かれていましたが、風雨による損壊が激しかったため、その像の型をとって新たにこの青銅製胸像を造ったという。
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ちなみに下半身が発見されるのは、それよりずっと後の平成14年のこと。
上半身、下半身の像がやっとそろって復元されたのが、以前レポートした予科練記念館 雄翔館前にある山本五十六全身像です。
この全身像が造られたのは平成16年(2004年)のことだから、山本元帥の戦死(1943年)から61年後の復元でした。

世界中が敵という厳しい状況の中、ほぼ勝ち目のない戦いを指揮し、結果として敗軍の将となってしまった山本五十六元帥。
しかしながら山本五十六は、平成の世になってもこのような像が復元されたり、映画化されたり、名言が様々な場で使われるなど、一人の英傑として今も日本人の心に生き続けています。
長岡駅周辺には山本記念公園のほか、山本五十六記念館など山本元帥ゆかりの施設がいくつかあるので、長岡に訪問の際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
(訪問月2015年12月)