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帝都南方にある西カロリン諸島の国家、パラオ共和国。
そのパラオ共和国に海外旅行へ行きました。
パラオは太平洋戦争の敗戦(1945年8月)まで日本の委任統治領であったためか親日国であり、日本語も相手によってはちょっと通じるため、あまり海外旅行に慣れていない私達でも過ごしやすかったです。
おススメです。
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パラオといえばダイビングの聖地として有名ですね。
南洋の海はとても美しく、魚たちはのんびりしていて、その雄大な海を見ていると汚い都会でせかせか働く自分がとても小さくアホらしく思えてきます。
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パラオ観光の目玉といえる、文化・自然の複合遺産として登録されている世界遺産、ロックアイランド。
美白効果のある白い泥で全身泥パックができるミルキーウェイ、引き潮の時だけ現れる長い砂浜ロングビーチ、ジェリーフィッシュレイクなど各名所でエメラルドグリーンの海を満喫できます。
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もともとはスペイン→ドイツの植民地であったパラオ。
1918年、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗北すると、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になりました。
この統治は、あくまでも国際連盟の委任による統治であったため、軍事施設を建設できないという制約がありましたが、1933年、日本が国際連盟を脱退すると、この制約が外れてパラオ各地には主に日本海軍の施設が建設されました。
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そのひとつがこれ、パラオ最大の島・バベルダオブ島アイライ州に位置する日本海軍の廃墟。
太平洋戦争中の空襲と日本海軍の撤退によって廃墟となり、今ではパラオの観光名所となっています。
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パラオで太平洋戦争といえば、戦争後期の激戦地・ペリリュー島で発生したペリリューの戦い(1944年9月15日~11月25日)が有名ですが、その約半年前の1944年3月30日から31日にかけて、アメリカ海軍の機動部隊による大規模なパラオ空襲がありました。
この施設はその空襲で破壊されてしまったのでしょうか。
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ここを案内してくれたのは現地人のガイドさんでしたが、通じるのは簡単な日本語だけで、あまり説明がなかったのでこの施設がどのように使われていたのかはよくわかりませんでした。
ガイドさんは、ここは日本の病院だった、と言っていたような気がします。
しかしなぜ病院が爆撃されたのだろうと思って調べてみたら、どうも病院ではなく日本海軍の通信隊の施設だったようです。
そりゃ狙われますよね…
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1944年2月、当時の日本海軍の一大拠点だったトラック諸島がアメリカ軍のトラック大空襲によって壊滅、無力化されると、日本海軍は次の根拠地をトラックの西方にあったパラオに選定、パラオに連合艦隊や航空機を集結させます。
しかし、おりしも連合国軍は、ダグラス・マッカーサー陸軍大将を司令官とするアメリカ陸軍のニューギニア北岸のホーランジア上陸・攻略作戦を進めており、その上陸支援として、アメリカ海軍第58任務部隊(機動部隊)にパラオ空襲の任務が下され、駐留していた日本海軍との間に戦闘が発生しました。
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このパラオ空襲はアメリカ軍の勝利に終わり、日本海軍は集結させていた支援艦船、輸送船、航空機を失ったほか、レーダー施設や通信施設等地上施設も破壊されてしまいました。
この廃墟も、そのパラオ大空襲で空爆されたものかもしれません。
この空襲で制空権を失った日本(パラオ)は、その後も散発的な空襲を受け続けることになります。
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建物の周囲には連装タイプの対空砲が複数設置されています。
これは日本海軍の主力対空機銃であった「九六式二五粍高角機銃(96式25ミリ高角機銃)」。
日本海軍の対空機銃としては、初速が早く優秀であったという。
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しかしこれらの機銃はもともとはこの建物を守備するためのものではなく、戦後作られた日米合作の映画「太平洋の地獄」をこの場所で撮影する際に、パラオ各地から集められたものだそうです。
「太平洋の地獄」は三船敏郎とリー・マーヴィンの2名しか登場しない異色の戦争映画で、無人島にある日本海軍の通信隊の廃墟に流れ着いた日本軍とアメリカ軍の軍人二人が、敵として対立しながらも、生き延びるために力を合わせていく戦争映画です。
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建物近くには戦車も置いてあります。
特二式内火艇という日本海軍陸戦隊の水陸両用戦車です。1942年制式採用。
もともと独自の戦車をもっておらず、陸軍の八九式中戦車や九五式軽戦車を使っていた日本海軍の陸上部隊・海軍陸戦隊が、上陸作戦も行える戦車として九五式軽戦車をベースに開発した戦車です。
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特二式内火艇は上陸時、水上を走行するための着脱式舟形フロートを車体の前後に取り付けて運用します。
当然ながらすでに上陸してある状態のこの車両にはフロートがついていません。
特二式内火艇が実戦に投入されたのは戦争後期のサイパンの戦いからで、このころにはすでに火力も装甲も貧弱なものになっていましたが、それでも日本海軍には数少ない貴重な装甲戦力として重宝されたという。
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日本海軍通信隊廃墟、内部。
窓や天井から差し込む陽光が明るく、暗い戦争の時代を感じさせる廃墟という感じではありません。
病院と言われて最初納得したのも、この明るさのためだったのかもしれない。
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当時の遺物は持ち去られてしまったのか、何も残っていません。
この建物が本当に日本海軍通信隊の施設だったのかも判然としません。
ただわかるのは、頑健に作られていたということだけです。
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爆撃を受けた際に開いた大穴。
これがこの施設が廃墟となった直接の原因だそうです。
コンクリートからむき出しになった何本もの鉄骨が、空へと手を伸ばす植物のように見え、なんだか芸術的にも見えました。
ここで勤務をしていた人たちは、爆撃後どうなったのでしょう。
無事故郷の空を見ることができたのでしょうか。
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第一次世界大戦後の日本の委任統治領であり、そして第二次世界大戦における日米激戦地であった西カロリンのパラオ群島。
パラオは日本統治時代の遺跡がいくつも残っており、日本史の授業では日本の黒歴史のごとくとばされていた昭和初期~敗戦までの歴史を、そのまま目の当たりにすることができる場所です。
他人の意見に左右されない、歴史の真実を見に訪問されてはいかがでしょうか。
(訪問月2012‎年‎9‎月‎)