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おかげさまで『帝都を歩く』もブログ開設から二周年を迎えました。
地味でマイナーな素材を扱うブログ内容にもかかわらず、今日まで続けることができたのは、ひとえに来訪していただいた皆様のおかげです。
ありがとうございました。
今後とも『帝都を歩く』をよろしくお願いします。
さて今回の訪問先は、北区西ケ原にかつてあった、大日本帝国海軍・下瀬火薬製造所の跡地です。
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現在地は北区西ケ原にある公園、西ケ原みんなの公園です。
西ケ原みんなの公園は平成22(2010)年に造成された新しい公園で、こじんまりとした西ケ原の細々とした住宅街の中にあって、どうやってこんな広い敷地が確保できたのだろうと首を傾げたくなるような敷地の広い公園です。
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その理由は、平成12(2000)年までここに東京外国語大学の西ケ原キャンパスがあったことに由来します。
東京外国語大学西ケ原キャンパスは昭和19(1944)年〜平成12(2000)年までの56年間ここに所在し、現在東京外語大は府中に移転しています。
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その西ケ原みんなの公園の外縁に、下瀬坂という名の坂があります。
この坂の名は、外語大の開校より前、明治33(1899)年から昭和15(1940)年の間、この地に置かれていた「海軍下瀬火薬製造所」に由来するものです。
下瀬火薬とは、かつて日本海軍の技師であった下瀬雅允が開発、実用化したピクリン酸を原料とする爆薬です。
下瀬火薬は大変威力の高い爆薬で、日露戦争における日本海海戦で活躍、連合艦隊を勝利に導く要因になりました。
その下瀬火薬の製造所がかつて、ここ西ヶ原みんなの公園がある場所にありましたが、太平洋戦争開戦前の年に京都府の舞鶴へ移転し、跡地は東京外国語大学のキャンパスになったという経緯です。
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そんな、かつては大日本帝国海軍の用地であった西ヶ原みんなの公園。
写真は西ヶ原みんなの公園北東の、公園部と西ヶ原の住宅地の間を通る道です。
自動車のスピード抑制のためか、道路はまっすぐですが車道が蛇行した形状になっています。
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この道路が、海軍下瀬火薬製造所がまだ存在していた時代の、住宅地と海軍用地との境界線だったのでしょうか。
写真右側の住宅の塀の端に、境界杭がありました。
だいぶ古いもののようで、見ただけではなんの境界杭なのかは判別がつきません。 
軍の用地を示す境界杭なのかもしれませんが、今ではゴミ置き場になってしまっています。
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境界杭から北東に道を進んでいくと右手に北区立西ヶ原小学校が見えてきて、その先は左曲がりのカーブになっています。
このあたりには境界杭は見当たりません。
更に進み、道に沿って左へと曲がっていきます。
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カーブを曲がった先にある、この路地を右へ入っていきます。
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曲がった先は車がやっと一台通れるくらいの狭い道路になっています。
一見何でもない、ただの裏路地ですね。
しかしながら、この道には旧海軍の施設が70年以上も昔に、この場所にあったことを示す境界杭が今も残っていました。
左手の黒い塀の下部分に注目してください。
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塀の外側にへばりつくようにして、境界杭が残っています。
かすかにですが「海軍」の文字が見えます。
これは、ここが旧海軍の用地とそれ以外の場所との境界であることを示す境界杭です。
花崗岩製の境界石のようですが、風化していてよく見ないと文字が見えなくなっています。
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さらにその先にも境界杭が埋まっていました。
境界杭は、路地というか、風景と同化していて非常にわかりにくいです。
それと知っていなければ、誰もが知らずに通り過ぎてしまうだろう、そんな史跡です。
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その境界杭からさらに道を進んでいきます。
道路はあいかわらず狭く、右に曲がっていく緩やかなカーブになっています。
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道路左側の隅に、また一つ境界杭が残っていました。
もう風化してしまったのか、文字は読み取れませんでしたが、先ほどの境界杭との位置関係から考えて、これも海軍用地の境界杭であることは間違いないと思います。
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更に先に進んでいきます。
左手は盛り土になっていて、それをせき止めるように大谷石と思われる石積みの塀があります。
住宅地の中、唐突に現れる盛り土。
この盛り土と塀は誰の所有になっているのでしょうか?
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その塀の中央部に、にょきっと境界杭が建っています。
こちらは他の境界杭に比べ周囲に何もないため、わりと目立つ境界杭です。
写真ではわかりにくいですが、石には縦書きで「海軍用地」とはっきり書かれています。
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境界杭と石積みの塀を別の角度から撮ってみました。
位置関係から考えると、この塀から向こうが海軍用地ということになりますね。
ところでこの塀、中央部分だけが乱雑に石が積まれ、色も汚くなっています。
かつてはこの場所に門か何かがあり、それを塞ぐために適当な石を嵌め込んだようにも見えます。
果たしてここに何があったのでしょうか。
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塀の先は一時停止のあるT字交差点になっており、交差点の先は緩やかな下り坂になっています。
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左手の民家の駐車場の縁に、もうひとつ境界杭がありました。
この石は何故か白くなっていて、より「海軍用地」の文字が見やすくなっています。
この境界杭は、鉢植えの土台として再利用されているようです。
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狭い路地の隅に並んでいた日本海軍用地を示す境界杭。
これら境界杭の位置関係から、現在は住宅地となっている西ヶ原四丁目41番、42番付近は海軍用地、つまり海軍下瀬火薬製造所であったことがわかります。
とすると、下瀬火薬製造所の用地は西ヶ原みんなの公園部分だけでなく、この付近まであるかなり広大なものであったようです。
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境界杭の近くにあった階段を上り、境界杭の内側を探索してみます。
この辺りは、先ほど見た塀の上に当たる場所です。
こちらは小規模な家やマンションが立ち並ぶ完全な住宅街になっていました。
何か史跡はないかと周囲をくまなく探してみましたが、残念ながら今回の探索では、境界杭以外の軍事遺跡を見つけることはできませんでした。
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東洋の小国にすぎなかった日本が、超大国ロシアを破った日露戦争。
その決定打となった日本海海戦の勝利は、下瀬火薬抜きでは成し得なかったと言われています。
弱小明治日本を救った救国の爆薬「下瀬火薬」。
その火薬の製造所の名残が今なお、ここ西ケ原には残っています。
(訪問月2016年2月)