墨田区石原に今も残る、大日本帝国海軍所属の駆逐艦、「初霜」の錨を見学してきました。
旧大日本帝国海軍の駆逐艦 初霜。
この艦は昭和8年(1933)に帝国海軍、初春型駆逐艦の4番艦として建造・進水した駆逐艦です。
この初春型駆逐艦というのは、設計上、船体強度や復元性能に問題がある、言わば「失敗作」の駆逐艦であったとされています。
加えて初霜は、その進水式において事故を起こしマストを折る失態を犯すなど、その能力を不安視される艦船でした。
しかしながら初霜は、戦争前期はオランダ領インドネシアへの侵攻戦などに参加し戦果をあげ、中期は北洋に転進しアッツ島沖海戦やキスカ島撤退作戦に参加するなど、太平洋戦争の全期間に渡りあらゆる海戦を戦い抜きました。
特に戦争末期の昭和20年(1945)、生還の可能性が初めからほとんどなかったといわれる北号作戦を成功させるとともに、その2ヶ月後には戦艦大和以下の水上特攻作戦「天一号作戦」に参加するものの、ほぼ無傷で生還するなど、歴戦の艦であるとともに幸運にも恵まれた艦でした。
そんな強運艦、初霜の終焉は終戦の直前でした。
初霜が舞鶴軍港宮津湾で対空戦闘にあたっていた昭和20年7月30日、戦闘中に米軍がばらまいた機雷に接触、艦は大破してしまいます。
海岸に強行擱座してどうにか沈没を免れることができたものの、もはや戦闘不能の状態でした。
そして初霜の擱座から半月後、大日本帝国は連合国軍に対し降伏、ここに初霜の戦いは終わったのです。
そんな太平洋戦争を戦い抜いた武勲艦、初霜の遺構が帝都の町中に残っているというので、早速訪問してきました。
現在地は墨田区横網、隅田川を渡す蔵前橋の近くの蔵前橋通りです。
近くには東京大空襲などによる太平洋戦争の犠牲者を慰霊する東京都慰霊堂や、関東大震災の復興記念館が建つ横網町公園があります。
ここよりさらに東に300mほど進んだところに、目的の駆逐艦 初霜の錨があるという。
ここより東側は、住宅が密集している下町ですが、このような下町になぜ駆逐艦の錨が残っているのでしょうか。
車が頻繁に行き交う蔵前橋通りから裏路地に入りました。
ここは墨田区石原、蔵前橋通りの一本北側を通る生活道路です。
このあたりは小さな戸建てが隙間なく並んでおり、まさに東京の下町といった風情の地域です。
この生活道路の先に、「山田記念病院」という病院があります。
最近建て直されたのか、新しくて綺麗な病院です。
この山田記念病院に、駆逐艦 初霜の錨が展示されているという。
なぜ、病院に駆逐艦の錨が展示されているのでしょうか。
その理由は、この山田記念病院が、かつて駆逐艦 初霜で軍医をしていた旧大日本帝国海軍軍医少佐、山田正明氏によって開業された病院であることにあります。
駆逐艦 初霜の錨は、太平洋戦争の敗戦後、初霜の海軍除籍により山田少佐の手に渡り、ここ山田記念病院に展示されることになったという。
山田記念病院のエントランス脇に、黒塗りの巨大な錨が展示されていました。
その大きさはニメートル以上あると思われます。
こんな巨大な鉄の塊に乗っかられたら、間違いなく潰されそうですね。
小型の駆逐艦でさえこの大きさなのだから、戦艦大和や武蔵の錨はどれほどの大きさであったのでしょうか。
錨のすぐそばには解説文があります。
太平洋戦争を生き残った日本海軍の艦船が、戦勝国に賠償艦として引き渡される中で、触雷し大破していた初霜は連合国軍に取り上げられることなく、戦後そのまま日本にて解体されたという。
初霜の解体後、残った錨は元初霜乗務員、山田少佐の手に渡り、時を経て、ここ山田記念病院にて展示されることとなったことが銘板に記されています。
もともと「失敗作」の軍艦として生まれた初霜。
いずれは撃沈され、滅びゆく運命であっただろう。
しかしながら初霜は、日本海軍駆逐艦203隻のうち170隻が沈没した太平洋戦争において、開戦から終戦に至るまでの全期間を戦い抜き、アラスカに近いアリューシャンから赤道直下のシンガポールまで、広大な太平洋を縦横に駆け抜けた、まさに大日本帝国の興亡とともにあった駆逐艦でした。
初霜は終戦直前、沈没するダメージを負ってもなお、海岸に擱座してまで自らの沈没を防いだという。
滅びゆく自らの運命と戦い、戦闘不能となるまで帝国を守り続けた歴戦の武勲艦、駆逐艦 初霜。
その抵抗の象徴ともいえる錨のみが、今も帝都の片隅で、当時の勇戦を伝えています。
(訪問月2016年5月)
コメント
コメント一覧 (10)
父は初霜では最も若い下っ端の方で通信関連の任務に就いていたらしいです。
天一号作戦や舞鶴で米軍の攻撃で大怪我をした話も聞きました。
今思えば、もっとちゃんと聞いて書き留めておけば良かったと、
適当に聞いていた事を後悔しています。
戦争というと私の世代ではどうしても遥か昔のことのように感じますが、そうした話を聞くと、やはりほんのちょっと前のことなんだと改めて思います。
当時を知る人が亡くなり時代の記憶が急速に風化する中で、少しでも当時の「何か」を記録に残したいと私も思っています。
初霜で十代の通信兵でした。大和の甲板の高さは駆逐艦のマストの位置まであるとか
主砲を打つと反動で船体が横に静かに動くほど、凄さを聞き入っていました。
また大和艦長が同じ県出身でとても可愛がってもらったとの話もありました。
当時グラマンの攻撃を受け、足、ひざ下に銃弾の貫通跡が1つ残っていました。
駆逐艦後部は機雷の影響で高さ50cmまで圧縮されて、仲間を救出出来なかったと
悲しんでいました。座礁させ砲塔を降ろしている最中に終戦となったと聞き及んでいます。
強運の父でしたが、病に倒れました。病院嫌いでした。
お父上は初霜に乗ってらしたのですか。
太平洋戦争後期の初霜は、生還の可能性の低い作戦に多く当たっていたとか。
戦中、戦後の激動の時代を生き抜いた御尊父の、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
大和艦長とは、最後の大和艦長有賀幸作大佐のことでしょうか。
長野県ではそのお名前はあるがと読むそうですね。
当時の貴重なお話をありがとうございました。
父は十代で志願し横須賀にいました。貧しさに立ち向かう為に
と理解しています。金の菊の御紋庄入りのたばこ1箱で60キロの米と
交換でき長野の実家に送付したとの話も聞き及んでいます。
大和艦長ては有賀幸作さまのことです。諏訪付近は有賀 あるが 峠、有賀トンネル(中央道)有賀神社、有賀地区とそのような名称がございます。
駆逐艦でのお話しですが、 食べ物は 時折 爆雷を落として魚を捕っていた
との話も聞いていました。
いつか広島呉には訪問したく存じます。
思い起こせばいろんなことがありました。私も86歳になり昔を懐かしんでいます。
病院のホームページには、山田先生は戦後の苦しい時期に24時間体制で病院を開けていたと書いてありました。
戦中のことは忘れずに保存し、戦後も地域に貢献した、素晴らしい先生だったんですね。
当時のことを語っていただきありがとうございました。
私の祖父は初霜で機銃員をしていました。高橋三吉司令長官からの表彰状も受けているようです。
いつかここを訪れたいと思います。
はじめまして、コメントありがとうございます。
ひとつの時代を伝える大事な錨だと思います。
ぜひ訪れてみてください。