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沖縄県国頭郡今帰仁村にある世界遺産、今帰仁城跡を歩いてきました。
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13世紀ごろ、沖縄本島において北部地域(やんばる)を支配した「北山」、中部地域を支配した「中山」、南部地域を支配した「南山」の三つの勢力が争った三山鼎立の時代がありました。
今帰仁城は三山時代、北山王3代に渡る城郭で、沖縄の奥州的地域である北部山原(やんばる)支配の拠点となった北部最大の城であり、「琉球王国のグスクおよび関連遺産」のひとつとして世界遺産になっています。
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起伏に富んだ地形と断崖絶壁に守られ、難攻不落といわれた今帰仁城ですが、1416年、やんばるの他の領主からよく思われていなかった第3代北山王樊安知(はんあんち)は、中山の尚巴志と北山反乱勢力の連合軍に今帰仁城を攻められ、北山王国は滅ぼされてしまいます。
その後、今帰仁城は三山を統一した琉球王国による北部地域管理のための拠点となりますが、1609年、薩摩軍による侵攻を受け、城は落城し建物は焼失、現在では城壁等城跡のみが残っています。
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ねずみ色の古期石灰岩で堅牢に築かれた今帰仁城の城壁。
なだらかな斜面の地形を利用し、まるで波打つように城壁が連鎖的に連なっています。
このように城壁の外側に一定の間隔を開けた突出部をおくことで、城壁に迫る敵を横あるいは斜めから攻撃できたという。
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今帰仁城の本門、平郎門から今帰仁城内に入ります。
アーチ型にくり抜かれた門は、日本本土の城には見られない大陸系の様式をもっています。
北山王の居城として堅城で知られた今帰仁城の守りは堅く、正面からの攻略は困難であったという。
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平郎門から主郭(本丸)へ向かう登城道。
平郎門から主郭方向に向け、直線的に延びる石階段がありますが、これは1960年代に整備された道であり、本来の登城道はこの道です。
大きな岩盤を利用して道幅を狭くし、敵が攻め入ってきても多数の兵士が一気に上がれないよう工夫された造りになっています。
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旧道をあがった先は大庭(うーみゃ)と呼ばれる大きな広場となっています。
大庭では祭祀など、城にとって重要な行事が行われていたと考えられています。
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大庭には御嶽があります。
御嶽とは琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、神が存在もしくは来訪する場所のことです。
ここは今帰仁城内の祭祀場で、城内下の御嶽「ソイツギ」と呼ばれています。
旧暦8月のグスクウイミという祭祀の時、今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願する場所であったという。
ノロについては、以前の久高島の記事を参考にしていただきたい。
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今帰仁城内には御嶽が二つあります。
こちらは大庭の隣、御内原(うーちばる)内にある城内上の御嶽「テンチジアマチジ」。
御内原は今帰仁城に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、昔は男子禁制の場であり、女官たちはこの御嶽で子孫繁栄や五穀豊穣、国家安泰を祈願したという。
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大庭と御内原の奥には、今帰仁城でもっとも中心的な建物があった主郭(本丸)があります。
かつては建物が建っていたと思われる礎石も残っており、主郭は今帰仁城の陥落後も、琉球王国の王族が旧北山勢力圏監守のために使用しました。
北山王国の滅亡後も沖縄北部やんばる支配の拠点として活用された今帰仁城、軍事要塞としての機能は極めて高かったといえるでしょう。
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難攻不落の今帰仁城の陥落は、城の内側からの内応によってでした。
中山側は北山王の側近を計略によって寝返らせ、今帰仁城の裏門に当たる志慶真門を開けさせて攻撃、この攻勢に北山王は敗北を悟って自害します。
志慶真門を突破し今帰仁城を陥落させたのは、かつて今帰仁城主であった曾祖父を北山王に討たれ、因縁のあった護佐丸でした。
王は武勇に優れ、兵は精強であり、城は堅城でありながらも内部分裂によって落城した今帰仁城。
沖縄本島北部唯一の世界遺産でもあり、北部に行った際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。 
(訪問月2016年10月)