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沖縄県那覇市若狭にある戦争展示施設、対馬丸記念館を訪問してきました。
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現在地は沖縄県那覇市、沖縄の神社では有名な波上宮の境内です。
波上宮は普天満宮等の琉球八社のひとつで、沖縄県の総鎮守の神社です。
沖縄を代表する歴史ある神社ですが、境内の建造物は太平洋戦争ですべて焼失してしまったため、今ある建物は戦後再建されたもので古めかしさはありません。
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『思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを』
波上宮境内には昭和天皇が沖縄に対して詠んだ御製を刻んだ石碑があります。
昭和天皇は太平洋戦争で特に被害の大きかった沖縄に対し特別の思いを抱き、昭和62年、沖縄訪問を決意されましたが、その直前に体調を崩して手術となってしまい、昭和天皇の訪沖は幻となりました。
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そんな波上宮境内から東側は、旭ヶ丘公園という小高い丘の公園があります。
遊歩道脇の緑は深いものの、照りつける沖縄の太陽に照らされ、陽光溢れる場所になっています。
丘の上には展望台があって、そこへ通じる階段状の遊歩道がいくつかあります。
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旭ヶ丘公園の丘の中には、複数の顕彰碑や慰霊碑が建てられています。
その中に、一際大きく、立派な「小桜の塔」という慰霊塔があります。
この小桜の塔は、太平洋戦争後期の昭和19(1944)年8月22日夜半、沖縄県から日本本土への学童疎開船対馬丸がアメリカ海軍潜水艦ボーフィンによって雷撃され、撃沈された「対馬丸事件」の犠牲者の慰霊塔です。
小桜の塔は事件で犠牲となった学童と付き添いの職員ら約1500人の魂を弔い慰めるため、昭和29(1954)年5月5日こどもの日に建立されました。
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旭ヶ丘公園内には対馬丸事件の資料を保管する対馬丸記念館が設立されています。
対馬丸記念館は多数の学童らが犠牲になった対馬丸事件の悲劇を後世に伝えようと、対馬丸撃沈から60年後の2004年8月22日、国の慰藉事業として開館しました。
対馬丸事件は私が学生の頃の歴史の教科書にも載るほど有名な事件でしたが、今はどうなんでしょうか。
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対馬丸記念館は二階建てで、対象を対馬丸事件のみに絞っているため規模の小さな展示施設です。
入り口は二階にあり、二階第一展示室から一階第二展示室へと資料を見学していく順路になっていて、当時の情勢、対馬丸の沖縄出航から撃沈、そしてその後までが証言などを通してよくわかる形になっています。
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二階第一展示室。
入り口の直近には、日本郵船所有のT型貨物船だった、対馬丸の模型が展示されています。 
戦時中は陸軍徴用船として、そして学童疎開船として使用された対馬丸は、アメリカ海軍による無制限潜水艦作戦によって攻撃され、1000名以上の学童を乗せたまま沈没してしまいました。
無制限潜水艦作戦とは、敵国の船ならば、軍艦だろうと民間船だろうと学童疎開船だろうと、構わずすべて撃沈するという作戦です。
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二階の半分は吹き抜けになっていて、吹き抜け部分にはイカダなどにしがみつく学童を模した人形が展示されています。
対馬丸が撃沈された際、船の乗組員などが懸命に海へ放り出された学童の救助に当たりましたが、果てしない真っ暗の海の中、台風の接近による風雨と巨大波、対馬丸の爆発、サメの襲撃など様々な要因により次々と学童は力尽き、少数の学童を救助するのがやっとであったという。
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一階第二展示室、昭和19年の教室が再現されています。
黒板には、「クーシュウケイホウ」ノ歌が板書されていました。
対馬丸撃沈からわずか49日後、十・十空襲と呼ばれるアメリカ軍による無差別空襲によって沖縄の都市部は灰燼に帰し、残された対馬丸事件の遺族は子供たちの安否も確認できぬまま、凄惨な地上戦へと巻き込まれていきます。
対馬丸記念館に展示されるべき遺品も、この空襲と地上戦によってほとんどが失われてしまいました。
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疑似教室の向かい側には、対馬丸事件で命を落とした学童の遺影が並んでいます。
200人以上の遺影がありますが、犠牲者の数を考えればまったく足りないことがわかります。
対馬丸乗船者の遺品はほとんど残っていないことに加え、戦時中は事件の箝口令が敷かれるなど、当時ほとんど事件の調査が行われておらず、対馬丸記念館に展示されている事件の資料は多くありません。
事件の大きさや犠牲者の多さに比して、展示物が少なすぎるのがなんとも悲しい。
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対馬丸記念館を出て、また旭ヶ丘公園に戻ると、小桜の塔の近くに巨大なガジュマルの樹を見つけました。
このガジュマルは「ふんばるガジュマル」という名前だそうです。
地元の小学生によって命名され、不安定な岩場に根を下ろし立派に成長した姿に、対馬丸事件を生き残った子供を重ね合わせて命名したという。
対馬丸事件で生き残った学童は、わずか59名。
戦後は沖縄に戻り、沖縄復興と、子供たちに自分たちと同じ目にあわせたくないという思いから、平和学習に尽力されたそうです。
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何故あんたは生き残ってうちの子は死んだのか。
生き残った学童たちは、言われるはずのない言葉に怯えて、 三十三回忌がすむ頃まで那覇の市場を歩けなかったそうです。
対馬丸事件は生き残った学童にも、その後の人生に大変な苦難をもたらしました。
戦争という大きな圧力に、踏みつぶされた学童疎開船の悲劇。 
対馬丸の船体は今も、同船が撃沈されたトカラ列島悪石島近海に眠っています。
(訪問月2016年10月)