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沖縄県糸満市伊原にある戦争遺跡、ひめゆりの塔と伊原第一外科壕跡を歩いてきました。
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現在地は沖縄県本島南端、糸満市伊原の「ひめゆりの塔」前の伊原信号機前です。
写真左手が有名な「ひめゆりの塔」がある広場で、道路を挟んだ向かいには沖縄の土産物屋が立ち並んでいます。
ひめゆりの塔は前にも来たことがありますが、周辺にあまり戦争とは関係のない土産物屋がたくさんあるのはその時と変わっていません。
土産物屋は観光客への呼び込みに積極的で、ひめゆりの塔周辺は沖縄南部の一大観光地といえるでしょう。
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土産物屋の店員さんと話したところ、この日も5000人以上の修学旅行生がやってくるのだと言う。
そんなにたくさんの人が訪問する戦争遺跡というのも珍しい。
戦後70年、ひめゆりの塔の集客力は未だ衰えておらず、とりわけ日本本土から来る学生の修学旅行の定番となっているようです。
この日も日系二世のハーリー・シンイチ・ギマ氏によって寄贈されたという、ひめゆりの塔等が建つ2000坪の広場は修学旅行と思われる学生で溢れていました。
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広場の奥には巨大な慰霊碑が建っています。
有名な「ひめゆりの塔」付近はこの日、観光客が多いことに加え、読経しながら手をあわせている一団がいたりして、容易に近づくことができませんでした。
さすがひめゆりの塔、戦争遺跡でこういった団体での慰霊が行われている光景を初めて見ました。
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ちなみにひめゆりの塔は、写真の二つの石碑のうち、奥にある「ひめゆりの塔」と刻まれている方です。
その後ろにある目立ちまくりの白い巨大な碑は、後年建てられた慰霊碑でひめゆりの塔ではありません。
ひめゆりの塔の除幕は敗戦約1年後の1946年4月7日のことで、まだ沖縄はアメリカ軍の強い占領下にあり、大きな慰霊碑を建立することはできませんでした。
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ひめゆりの塔の隣には、ひめゆり学徒隊が沖縄戦末期に勤務していた伊原第三外科壕跡が天に向かって口を空けています。
ひめゆり学徒隊は沖縄の地上戦の前~中期にかけて、沖縄陸軍病院南風原壕アブチラガマなどで負傷兵の看護にあたっていましたが、首里の第32軍地下司令部壕の失陥後は、撤退する日本軍に伴って沖縄本島南端に避難し、ここ伊原第三外科壕他、各地にあった複数の自然壕に潜みました。
外科壕と言っても南部撤退の際、医薬品のほとんどを遺棄してきたため、もはや病院の体をなしていなかったという。
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伊原第三外科壕には立ち入ることができませんが、傍らに壕の断面図があります。
縦穴のような形状をしている伊原第三外科壕。
こんな形で黄燐手榴弾などを投げ込まれては、ひとたまりもなかっただろう。
この壕では1945年6月19日、アメリカ軍の黄燐手榴弾などによる攻撃を受け、壕にいた96名中87名が死亡し、うちひめゆり学徒隊は42名の犠牲者を出しています。
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慰霊碑のさらに後ろには、沖縄戦やひめゆり学徒隊の軌跡を紹介するひめゆり平和祈念資料館が建っています。
このひめゆり平和祈念資料館には、資料や展示パネルだけでなく伊原第三外科壕を実物大で再現したジオラマがあります。
壕の一番奥からの視点で作られているジオラマで、ひめゆり学徒隊が不安と一縷の望みを抱えながら見上げていたであろう第三外科壕の出入り口を見上げることができます。
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ひめゆり平和祈念資料館の出入り口には、全国の各学校から持ち寄られた千羽鶴が大量にかけられていました。
どれも真新しいので、定期的に持ち寄られては随時更新されているのだと思います。
この千羽鶴、戦後から総計すればすさまじい数になっていると思いますが、やっぱり年々廃棄されているんですかね。
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そんな伊原第三外科壕跡から西に約200m、歩いたら5分とかからない場所に、「伊原第一外科壕」という自然壕があります。
「第三外科」というからには当然第一も第二もあり、伊原第一外科壕は、第三外科壕と同じく沖縄戦末期にひめゆり学徒隊が隠れ潜み、そして犠牲を出した壕です。
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伊原第三外科壕から伊原第一外科壕までは直線距離にして約400m、徒歩にして6分程度です。
手前に見える標柱が伊原第一外科壕への道を記す標柱で、走ってくる観光バスの奥に見える建物がひめゆりの塔を中心としたいわゆるひめゆり観光地です。
ひめゆりの塔周辺はたくさんの観光客や修学旅行生で賑わっていますが、客を乗せたバスがここ伊原第一外科壕前で止まることはありません。
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標柱にある矢印に従って左に曲がると、サトウキビ畑の中に農道があります。
ひめゆりの塔前にはあれほどいた観光客も、この辺りは人っ子一人いません。
先ほどまでの喧騒が嘘のような、静かなサトウキビ畑の中を一人てくてくと歩いていきます。
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たいして歩かないうちに、左手に雑木林が見えてきて、その中にちらちらと慰霊碑のようなものが見えてきます。
伊原第一外科壕にいたひめゆり学徒隊は、南風原の沖縄陸軍病院にいた生徒たちではなく、沖縄陸軍病院糸数分室、アブチラガマで勤務していた生徒たちのようです。
同じひめゆり学徒隊でも、生徒たちは南風原の沖縄陸軍病院他、識名分室、一日橋分室、糸数分室などに分散して配置され、沖縄守備軍の南部撤退後は、山城の本部壕、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕、伊原第三外科壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕などに分散して配置されました。
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茂みに埋もれるようして、ひっそりと建つ「第一外科壕跡」 と刻まれた慰霊碑。
その下の石版には、何か書かれていたものの、風化や汚れによって判読できませんでした。
傍らに掛けられた千羽鶴は、色褪せて干からび、触ったらボロボロと崩れ落ちてしまいそうです。
石碑が美しく手入れされ、たくさんの千羽鶴がかけられ、一種の観光地となり多くの人が参拝していた第三外科壕とのギャップを感じました。
慰霊碑の左手に、伊原第一外科壕跡地があります。
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1日に5000人以上の人が慰霊に訪れる伊原第三外科壕に対し、こちらは訪れる人も少ないであろう、寂しい雰囲気の伊原第一外科壕。
しかしどちらもひめゆり学徒隊が沖縄戦末期に昼夜を徹して看護活動にあたり、そして犠牲者を出した壕であり、両者に違いはありません。
さらに言えば、看護学徒隊はひめゆりだけでなく、白梅学徒隊やずいせん学徒隊など、ひめゆり学徒隊と同様の運命を辿った学徒隊が勤務していた病院壕は沖縄南部にたくさんありますが、これらもあまり知られていません。
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伊原第三外科壕とその他の壕の違いは「ひめゆりの塔」の存在だけです。
これ自体はただの石なんですが、戯曲化、映画化されたひめゆりの塔は、沖縄戦の学徒隊の悲劇を日本全国に伝えると同時に、ひめゆりの一部の学徒隊以外の学徒隊の存在を霞ませるという弊害を生み、沖縄戦の学徒隊の慰霊はほぼひめゆりの塔に一極化されてしまいました。
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多ければ1日5000人が参拝に来るというひめゆりの塔と伊原第三外科壕。
二回ひめゆりの塔へ足を運んでの正直な感想として、ここは神格化された「ひめゆりの塔」にあやかった、歪な観光地といった感が拭えませんでした。
勿論無数にある戦争遺跡をすべて慰霊するのは難しく、こういった代表的慰霊地ができるのは仕方がありません。
そんな中でできるなら、ひめゆりの塔を訪問した際は、距離も近く同じひめゆり学徒隊が昼夜を徹して看護活動をし、犠牲者がでた伊原第一外科壕にも目を向けてほしいと思います。