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沖縄県中頭郡読谷村波平にある戦争遺跡、チビチリガマを訪問してきました。
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現在地は読谷村のテーマパーク、体験王国むら咲むらの東側を南北に走る渡慶次波平線上です。
読谷村は南隣の嘉手納町とともに、太平洋戦争の沖縄戦でアメリカ軍が上陸してきた地域です。
チビチリガマは、そんな読谷村で民間人が潜んでいた避難壕で、アメリカ軍に攻撃され混乱に陥った避難民が集団自決を行った壕です。
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渡慶次波平線の側道には、チビチリガマ参拝者のための駐車場があります。
チビチリガマ入り口の目印は写真奥の赤瓦葺きの公衆トイレです。
周辺はサトウキビ畑とかしかないんですが、なんでこんなところに公衆トイレがあるのでしょうか。
チビチリガマ参拝者用公衆トイレですかね?
公衆トイレ前にある農道を、畑の方に向かって歩いていきます。
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少し歩くと、左手の雑木林の中に下へと降りる階段があります。
この階段がチビチリガマへの入り口です。
沖縄戦開始前、読谷村がある沖縄中部の防衛を担当していたのは沖縄守備の第32軍隷下にあった第24師団でしたが、沖縄戦開始直前に第32軍の中核部隊だった第9師団が台湾防衛に抽出されると、第24師団は第9師団の穴を埋めるため本島南部に移動してしまい、沖縄中部はがら空きになってしまう。
第9師団の転出によって沖縄の地上戦が開始される前からその兵力を三分の一減らした第32軍は、上陸してくるアメリカ軍への水際攻撃を諦め、洞窟陣地に籠って戦う持久作戦をとります。
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この戦法の転換により、アメリカ海兵隊は読谷村の西海岸に無血上陸することができ、その日のうちにチビチリガマに迫ります。
チビチリガマではアメリカ軍に対し、男女三名が竹やりをもって立ち向かうも、壕の目の前で銃撃され、男二名が射殺されてしまいました。
それを見てガマの中は、残虐と教えられてきたアメリカ軍への恐怖と絶望感から、蜂の巣をつついたようなパニックに陥ってしまったという。
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階段を降りると、左手にチビチリガマと、犠牲者の慰霊のためのチビチリガマ世代を結ぶ平和の像があります。
周囲は鬱蒼としたガジュマルなどの木々に囲まれ、なんとも重苦しい雰囲気です。
圧倒的なアメリカ軍の力を見せつけられ、日本軍による救援も望めず混乱の中にあったチビチリガマでは、自決をしようと決めた人々と、なんとか生き延びようとする人々で意見が真っ二つに分かれ、ガマの人々は生か死かの極限の選択を迫られることになりました。
生き延びようと意見を述べた人々は、小さな子供を抱え、命の大切さを知っていた母親たちであったという。
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黒々とした口を空けているチビチリガマ。
混乱の中で、自決を決めた一部の人はガマの人々に毒薬を注射してまわり、また一部の人は布団や毛布に火をつけ、集団窒息死を図ろうとするなど、ガマの中は死をもってすべてを解決しようとする凄惨な集団自決が起こってしまいます。
この集団自決によって、ガマの中の避難民140名の半分以上にのぼる83名が死亡。
その6割近くが、18歳未満の子供であったと言われています。
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煙の充満するガマから逃げ出した人は、なんとか助かりましたが、事件のことが明らかにされたのは、集団自決から38年が経過してからのことでした。
「なぜお前だけ助かったのか」
チビチリガマに避難していた人々は、親族や、隣近所で家族付き合いをしていたような人たちであったという。
言わば身内同士で殺しあう結果となってしまったチビチリガマの惨劇は、長年口にしてはならないタブーとなっていました。
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チビチリガマの前には、遺族からのメッセージがつづられています。
チビチリガマは、チビチリガマ遺族会の許可がなければ立ち入り禁止となっています。
チビチリガマの集団自決事件は、絆の強い身内同士であったからこそ互いの身を案ずるあまりに、せめて安らかな死をと願って集団自決が起きたとも考えられます。
子供たちに犠牲が多かったというのも、大人たちに、せめて子供には苦しませたくないという思いがあったからではないでしょうか。
もしそうだとするなら、なんともやり切れない思いだけが残る事件です。 
(訪問月2016年10月)