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沖縄県糸満市伊敷にある戦争遺跡、轟の壕を歩いてきました。
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沖縄本島の南端、糸満市に位置する自然洞穴「轟の壕」。
轟の壕は太平洋戦争末期、沖縄戦の最終局面において追い詰められた日本軍と沖縄の避難民が立てこもり、アメリカ軍による攻撃と日本軍による避難民への暴行で多数の犠牲者を出したと伝えられる壕です。
沖縄県知事島田叡ら県庁職員も避難していた壕であり、大日本帝国における最後の沖縄県庁とも言われています。
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轟の壕は、那覇市から沖縄本島南部をぐるりと回る国道331号線沿いに位置しています。
国道331号の、地名が伊敷から真栄里に変わる直前にある信号のない大きな交差点を西に曲がると、左手の森へ上がる階段があり、それが轟の壕への入り口です。
ここへは以前来たことがあり、そのときは諸事情により中へは立ち入りませんでしたが、今回は轟の壕内部に入ってみたいと思います。
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道路に面した階段を上がると、目の前には鬱蒼とした森と砂利の小道があります。
小道は両側の樹木の陰が深く、昼間でも薄暗いです。
照りつける沖縄の太陽がとても眩しく、サングラスをかけなければならないほどだった国道331号からここに入ると、急に太陽が落ちてしまったような、そんな錯覚を覚えます。
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小道を進んでいくと、やがて下りの薄暗い石階段に出ます。
雨が降ったわけでもないのに、なんだかじめっとしている石階段を、足を滑らせないように慎重に降りていきます。
階段の周囲はガジュマルの樹が生い茂り、木の上から垂れ下がった根っこがぶらぶらと風に揺れていてなにか気味が悪い。
前に来たときも感じたことですが、この轟の壕周辺は全体的に暗い雰囲気が漂っています。
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階段を下りれば下りるほど、何か圧迫感を感じて、息苦しい、と感じるようになります。
空気が澱んでいるのでしょうか。
かつてこの轟の壕と沖縄県平和祈念公園を同日に訪れたときに、思ったことがあります。
沖縄県平和祈念公園内にあった南冥の塔の壕や鉄血勤皇隊の壕、そして沖縄守備軍終焉の壕は摩文仁の丘の森深くにあるのに、どこか明るい雰囲気を感じましたが、なぜこの轟の壕は、大きな幹線道路のすぐ近くにあるというのに、こんなにもおどろおどろしい雰囲気が漂っているのだろう。
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轟の壕はその開口部が上にある直径30mほどの巨大な縦穴で、例えるなら天に向かって巨大な口をぱっくりと空けたような、蟻地獄を思わせる洞窟です。
その巨大な縦穴の底は(ある程度)円形で平らな地面になっていて、全体的なイメージとしてはすり鉢のような形になっています。
そのすり鉢の側面に作られた石階段を降りていくと、やがて重苦しい空気が漂うすり鉢の底部に辿り着きます。
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暗い底の岩陰には、何か祭壇のようなものが作られています。
いくつかの石碑があり、そこに小銭などが置かれていることから、拝所になっていることがわかります。
ここ轟の壕で沖縄戦末期、戦いの犠牲になった人たちを弔うための拝所でしょう。
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「母しん あまんちゅうだ とぅるるち」
と読める石碑。
とぅるるちは轟の沖縄方言と思われます。
あまんちゅうだは不明。
あまには「あちらの方」という意味があるため、ひょっとしたらあの世の人とかそんな意味があるのかもしれません。
母しんは……「母心」もしくは「母神」の意でしょうか?
ここ轟の壕では、戦争という極限の状況下で、多くの子供や赤ん坊が殺害もしくは餓死の運命を辿ったと言われています。
ある母親が、赤ん坊を泣かすな、と日本兵に言われ、やむを得ず赤ちゃんの口におしめを突っ込んだところ赤ちゃんが窒息死してしまった、という話もあります。
その母親の苦しみがどれほどのものであったのか、想像すらできません。
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拝所の隣には、大きな窪みがあります。
巨大なすり鉢である轟の壕の底には、さらに二つの壕があって、戦時中はそこを「上の壕」と「下の壕」と分けて呼んでいたそうです。
こちらは「上の壕」である横穴で、規模もそれほど大きくなく、避難民50~60名と、小禄の海軍地下司令部壕で玉砕しなかった海軍部隊数名が潜んでいた壕であるという。
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「上の壕」の中には戦争犠牲者の小さな供養塔が数本建っていました。
この上の壕は奥行きもなく、洞窟というよりは巨大な轟の壕の中の窪みと言った方が正しいと思います。
こんなところに何十人も隠れていたのか、と思ったものの、轟の壕はのちにアメリカ軍によって爆破されており、当時と今とでは形が違っているため、当時はもっと奥深かったものと思われます。
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上の壕のすぐ近くに、真下に向かって人が一人やっと入れるくらいの小さな穴が、ぽっかりと空いています。
穴は小さく、口の中は真っ暗なので中がどうなっているのか、地上からではわかりません。
この穴近くの足場は、表面についた泥や苔でつるつると滑り、油断していると穴に滑り落ちてしまうんじゃないかと不安に感じました。
配置的に、まるで轟の壕という巨大な蟻地獄の巣の穴のようで、穴の中からは強烈に嫌な空気が漂ってきます。
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この穴は上の壕に対して、戦時「下の壕」と呼ばれていた洞窟の入り口です。
この穴の下には巨大な洞窟があり、そこには沖縄戦末期、600名から1000名以上と言われる避難民と十数名の陸軍部隊が立てこもっていました。
下の壕は米軍の攻撃が迫る中、立てこもっていた日本陸軍兵士が避難民から食糧を取り上げ、時に殺害し、投降させないよう閉じこめた洞窟として知られています。
前回来たときは、諸事情から入れなかったこの下の壕。
今回はこの中に入ってみたいと思います。
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洞口から下の壕内部へと降りていきます。
一応足下は階段状になっていますが、水はけが悪く非常に滑りやすくなっていました。
カメラのフラッシュのため明るく見えますが、実際は真っ暗であり、懐中電灯の明かりがなければ何も見えません。
入るのに灯りは必須です。
黒いホースは地下水を汲み上げるためのホースのようで、踏むな、と注意書きが書いてあります。
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出入り口は非常に狭く天井の低い下り坂が続き、足下の岩場に手をつくように屈みながら降りていくのがやっとです。
岩の表面には泥がつきまくりなので、慎重に行かないと服がかなり汚れます。
滑りにくい靴と汚れてもいい服、手袋なんかもあるといいと思います。
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下り坂を降りきると、ようやく平坦な場所に出て、頭上も大きく空けて立ち上がれるようになりました。
なるほど出入り口がこのように狭ければ、外の米軍は壕内への攻撃が難しかっただろう。
ちなみに陸軍兵士はこの入り口付近に軽機関銃を配置しましたが、その銃口は米軍のみならず、投降しようと出ていく避難民の背中にも向けられたという。
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轟の壕、下の壕内部。
この壕は全体的に地下水によってじめじめと湿っており、それは奥に行くほど顕著になっていきます。
当初、避難民だけが隠れていた轟の壕ですが、後からやってきた陸軍部隊は避難民を奥の湿地帯に追いやり、自分たちはこの手前の比較的乾燥した場所を占拠したという。
まあ、手前の方が米軍の攻撃を受ける可能性があり、すぐに動けるところに陣地を作ったという考え方もできますが…
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壕の右側は絶え間なく地下水が流れる水路となっています。
この地下水が、この壕を不気味にさせているような気がしてならない。
もっとも戦争中は、貴重な命の水として役に立ったのでしょうが…
水の流れに沿うように、壕の奥へと進んでいきます。
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壕の途中に、何か祭壇のような、人工的なものがありました。
ここも拝所でしょうか。
轟の壕では、アメリカ軍のガソリン流し込みによる火炎攻撃、日本陸軍による避難民への暴行、食糧不足による飢餓などにより多数の犠牲者が出たという。
しかしもともとこの壕にどれだけの人がいたのか正確にはわかっておらず、故に犠牲者の数も分かっていません。
ひょっとしたら壕内には、まだ発掘されていない遺骨が残っているかもしれません。
最近では2016年9月にこの壕で平和学習中の高校生が、日本軍のものと思われる長さ50cmほどの銃剣を発見しています。
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入り口から100mほど歩いたところで、壕の終端にたどり着きました。
洞窟の一番奥には、地下水が貯まっている池のような場所があります。
なるほど奥の湿地帯というだけあって、この辺りは足下がぬかるんでおり、立っていると少しずつ足が泥濘に沈んでいくのでこれ以上奥には進めそうにありません。
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歩いてみてわかったのは、ここは人が住むような場所ではないということでした。
本当にこんな洞窟に600名近くの人間が隠れていたのだろうか、と疑問に思うほど下の壕の規模は大きくないし、環境も極めて悪いです。
避難民は包囲された極限の状況下でこんなところに押しやられ、壕を出ることも投降することもできず餓死していったのでしょうか。
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絶望的な状況下にあった下の壕を救ったのは、上の壕にいて、たった一人でアメリカ軍に投降した避難民の女性だったという。
その女性は10歳までハワイに住んでいたため、英語が堪能で、アメリカ人をよく知っていた人物でした。
白旗を掲げ、最初にアメリカ軍に投降した彼女の呼びかけに、まず上の壕の海軍部隊と県庁職員、避難民が応じて投降。
投降した海軍の兵曹長が下の壕の陸軍部隊を投降させて、下の壕の避難民は暗黒の飢餓地獄から解放されることとなりました。
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沖縄防衛軍第32軍の指揮官、日本陸軍牛島満中将が摩文仁の丘で自決し、沖縄戦の組織的抵抗が終結した二日後の昭和20年6月25日、轟の壕でアメリカ軍に投降した人員は約600人であったと言われています。
しかしそれ以前に、轟の壕で亡くなった犠牲者の正確な数はわかっていません。
まるで蟻地獄のような形をしているこの轟の壕、その穴の底から寒気のするような妖気が漂ってくるのは、犠牲者たちの無念の思いが、今なお地の底に残っているからかもしれません。