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沖縄県うるま市与那城屋慶名にある戦争遺跡、与那城監視哨跡を訪問してきました。
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現在地はうるま市の県道37号線、与那城郵便局前です。
与那城郵便局は勝連半島の中ほどの場所にある郵便局で、近くには伊計島や平安座島などへ渡ることができる海中道路があります。
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この与那城郵便局から県道37号を北東に進み、最初に現れる小さな交差点を左折します。
交差点を曲がった先には、緑深い丘が見えます。
この丘はイシマシムイと呼ばれている丘です。 
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イシマシムイの丘の斜面に沿うようにして、車がやっと一台通れる道幅の坂道を上っていくと、右手に火災でもあったのかと思うような廃屋があり、その向かい側に赤字で「避難路」と書かれた看板と、丘を分け入っていくコンクリートの道が見えてきます。
この避難通路を通って、イシマシムイの丘の中へと分け入っていきます。
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勾配の急な坂になっているコンクリートの避難通路を上っていくと、途中に案内板があって、その隣に人がぎりぎり通れるくらいの獣道が通っています。
案内板には「与那城監視哨跡」とあり、この獣道が目的の監視哨跡への通路となっているようです。
なお監視哨とは、航空機を早期に発見し、敵味方を区別し防空機関へ報告するための施設のことです。
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かろうじて道だと思える山道を登っていきます。
第二次世界大戦中、沖縄県内には11ヶ所の防空監視哨があったという。
その内訳は、那覇、糸満、本部、金武、国頭、嘉手納、宮古、八重山、西表、久米島とそしてこの与那城監視哨の11ヶ所です。
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道があるんだかないんだかよくわからない与那城監視哨までの山道。
かつては人通りがあり、ちゃんとした道があったのでしょうが、今この上にあるのは廃墟となった戦争遺跡のみ。
人が来ることもなくなれば、この道もやがては緑に埋もれてしまうでしょう。
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一際急になっている坂を駆け上がると、野生のサトウキビなどが生い茂る丘の上に、朽ちかけた正八角形のコンクリート製建物が姿を現しました。
この廃墟が第二次世界大戦中の防空監視哨「与那城監視哨」です。
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与那城監視哨は建物の入り口を除く七つの壁面に、それぞれ大きな窓枠があって、360度周りを見渡せる構造になっています。
また、外側の窓枠から下の部分は土に埋まっていて、人が待機する場所は半地下になっています。
これは敵航空機から監視哨の存在を秘匿するためでしょうか。
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与那城監視哨の壁面には戦時中に機銃掃射を受けたと思われる、大きな弾痕がいくつも残っています。
攻撃能力はないとはいえ、軍事施設であった監視哨は攻撃の対象となりました。
もっとも連合国軍は、戦争犯罪に該当する非軍事的施設である市街地への空襲を積極的に行っておりましたが。
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監視哨の中に入ると、機銃掃射の弾痕は貫通していることがわかります。
ここで対空監視に当たっていた人たちは無事だったのでしょうか。
青年学校の生徒を中心に31名が監視員となり、6名1組で監視に当たっていたとのことですが…
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厚いコンクリートを貫通している、おびただしい数の機銃掃射の弾痕。
与那城監視哨が最初に作られたのは昭和13(1938)年の日中戦争の頃で、その時は雨戸を六枚立てただけの簡単なものだったそうです。
与那城監視哨が今のようにコンクリート製に建て替えられたのは昭和18(1943)年。
このころ太平洋の島々では「最初の玉砕戦」アッツ島の戦いを皮切りに、マキン、タラワなど日本軍の玉砕が続き、日本を取り巻く風向きが敗戦へと直結していきます。
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今の与那城監視哨からは、背の高い藪の向こうにかろうじて太平洋が見えます。
今から70余年前、ここで沖縄の空と平穏を守るため、じっと空を監視していた人たちがいました。
昭和19(1944)年10月10日の十・十空襲の際には、与那城監視哨の防空監視隊は敵機来襲を最初に報告したとして、当時の沖縄県知事から感謝状が授与されたという。
もっとも防空監視隊からの報告は沖縄守備の第32軍に信頼されず無視され、結果対応が遅れて那覇市街地に甚大な被害を出してしまいましたが。
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道らしい道もない、丘の上に建つという独特のロケーションにある廃墟、与那城監視哨。
おそらく戦後の与那城監視哨の利用者は、このイシマシムイの丘で遊んでいた子供たちだったのではないでしょうか。
子供たちの山遊びの際に、ひょっこりと茂みの中から現れる与那城監視哨は、子供たちに秘密基地のような場所を提供していたのかもしれない。