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戦後のヤミ市の面影を残すアメ横がある帝都有数の繁華街、台東区上野。
前にアメ横の食堂で蕎麦を食べたときに、商店会のキャンペーンがあってとりあえず応募してみたら、後日一万円のギフト券が当たって家に届いたことがあります。
それ以来、普段はあまり外食はしない我が家ですが、とりあえず上野に来たら感謝を込めてランチを食べるようにしています。
さて、今回はそんな上野の中心地、恩賜上野公園を歩いてきました。


花があったら
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〔以下、引用〕
昭和20年3月10日の東京大空襲から三日目か、四日目であったか、私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。
永代橋から深川木場方面の死体取り方付け作業に従事していた私は、無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、さして驚くこともなくなっていた。
午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。
頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変わりはなかったが、倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。
着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。

その人は赤ちゃんを抱えていた。
さらに、その下には大きな穴が掘られていた。
母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、爪は一つもなかった。
その人はどこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。
赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。
小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。
だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。
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私の周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。
どの顔も涙で汚れゆがんでいた。
一人がそっとその場を離れ、地面にはう破裂したちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。
若い顔がそこに現れた。
ひどい火傷を負いながらも、息のできない煙に巻かれながらも、苦痛の表情は見られなかった。
これはいったいなぜだろう。美しい顔であった。
人間の愛を表現する顔であったのか。
だれかがいった。 「花があったらなあーー」
あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。
私たちは、数え十九才の学徒兵であった。
〈出典:1970年12月29日付朝日新聞掲載の須田卓雄氏の体験談〉
(写真は当時警視庁のカメラマンであった、石川光陽氏の記録写真)
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桜咲く季節、多くの人が花見に集う恩賜上野公園。
観光客やストリートパフォーマンス、修学旅行生、博物館や美術館などに訪問する人などでいつも賑わっています。
最近は特に外国人旅行客が多いような気がします。
しかしこの上野公園は太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月10日未明に発生した東京大空襲(下町大空襲)の際、膨大な数の遺体の仮埋葬地になったという過去のある場所です。
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こちらは上野公園のシンボル、西郷隆盛の銅像です。
「上野の西郷さん」と親しまれ多くの人が写真撮影などで足を止める上野公園の人気スポットですが、東京大空襲の発生後、この銅像の横に空襲の犠牲者を火葬する臨時の火葬場があったという。
人口密集地であった下町に大量の焼夷弾を投下され、1日で10万人以上という死者をだした東京大空襲。
しかし当時の帝都東京の火葬能力は1日500人程度でとても追いつかず、遺体のほとんどは錦糸公園や隅田公園等といった空襲を受けた下町の大きな公園に仮埋葬されることとなりました。
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こちらは上野公園内に建立された関東大震災・東京大空襲の慰霊碑、「時忘れじの塔」。
東京大空襲が多くの犠牲者を出してしまったのは、木造建築が多く密集し火に弱い下町に大量の焼夷弾が投下されたことや、国が防空法により国民に初期消火を義務づけ、到底不可能だった消火活動を課せられたこと等複数の悪条件が重なったことに原因があります。
このため、東京大空襲よりも大規模で2日間に渡って行われた山手大空襲では、無理な消火より避難を優先した結果死者数は6000人ほどに抑えられています。
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上野公園は大空襲の際、多くの避難民、罹災者を公園内防空壕などに収容して防災空地としての役割を充分果たしたとされています。
しかしながら聞いた話では、軍が昭和通りなど幹線道路に部隊で一線を張り、当時の浅草区(現在の台東区東部、上野公園は下谷区)などから上野の山へ逃げてきた避難民を火の海となっていた浅草区へ追い返したという。
この一線を抜けられたのは、軍需産業に従事して軍から証明書を貰っているなど、一部の特権階級者のみであり、多くの庶民がここで切り捨てられたと話に聞きました。
この話はあくまで伝聞ですが、他にも色々と伝えられているエピソードを見るに、この時代、大日本帝国臣民の命はアメリカ軍のみならず日本軍にとっても軽かったと思われます。
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上野公園の人気スポット、恩賜上野動物園も散策してきました。
動物園内でも外国人観光客の比率は高く、あちこちで中国語を筆頭に様々な外国語が話されています。
上野動物園はそれほど目を惹く展示があるわけでもない普通の動物園ですが、立地がいいためか訪れる外国人は多いようです。
ちなみに東京大空襲における上野動物園の被害は、資料が残っていないようでよくわかっていません。
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すでに戦時猛獣処分を行い、大きな動物が少なかった上野動物園。
しかし東京大空襲の影響で飼料が途絶したため、戦時猛獣処分では殺処分を免れていたカバが殺処分されたそうです。
カバは大食いだからでしょうか。
上野動物園における東京大空襲の直接的な被害は伝えられていないものの、流通への影響等間接的な被害は大きかったと推測されます。
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また上野公園の北側、東京国立科学博物館そばにある現龍院墓地には、東京大空襲の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」が建立されています。
碑文や説明文については、総務省のホームページに載っています。
古い地図によると、この場所には戦災死者の合葬墓地があったようです。
昭和20年3月10日の東京大空襲での死者は、警視庁の調査で8万3793人。
ここには早期に遺体が引き取られたものや、行方不明者等の数は含まれておらず、戦中・敗戦という特殊な状況もあってその被害の全容はわかっていません。
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東京大空襲によって亡くなり、上野公園に仮埋葬された遺体は約8400体とされています。
焼夷弾で虫けらの如く焼き殺された日本人の、血と涙が染み込んだ恩賜上野公園。
ほんの70数年前、この上野のお山は空襲で壊滅した帝都の火葬場でした。
上野のお山には、今でも犠牲者たちの魂が眠っているのかもしれません。
この慰霊碑の周辺や、桜の時期には花見で賑わう場所や、ストリートパフォーマンスを行っている広場や、私たちが歩いているこの地面の下に。
(訪問月2017年1月)