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2016年のクリスマスシーズン、表参道を歩いてきました。
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娘が町の小さな電飾を見ると「ピカピカしてる!」と言って喜ぶので、子どもたちに大きなイルミネーションを見せてあげようと家族でやってきた表参道。
ケヤキ並木に装飾されたLED照明を見て、娘が「ロウソクたくさんあるねえ!」などと言っていました。
娘にはケヤキにつけられた無数の照明が、ロウソクの灯火に見えたのでしょうか。
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表参道は大正8(1919)年、明治神宮の参道として整備された大通りです。
こちらは表参道の入り口にあたる表参道交差点。
表参道交差点から原宿駅付近にある神宮橋交差点まで、大通りにケヤキ並木が続いています。
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その表参道交差点に、二基の巨大な石灯籠が建っています。
この石灯籠は表参道整備時に建立されたもので、こちらは交差点の北東にあたる赤坂警察署表参道交番側の石灯籠。
現在では表参道のシンボルとして、若者たちの待ち合わせ場所になっています。
裏手が喫煙所なので、石灯籠の周りはけっこう煙たい。
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この石灯籠、台座の一部が黒くなっています。
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月24日から25日夜にかけて、渋谷、新宿など山手地区にアメリカ陸軍による大規模な空襲がありました。
来襲した戦略爆撃機B-29は2日間で約1000機、投下された焼夷弾は6000トン以上という、同年3月10日の東京大空襲を遥かに上回る最大規模の無差別爆撃でした。
この台座の黒ずみは、この「山手大空襲」の爪痕と言われています。
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表参道交差点の横断歩道を渡り、交差点の南西側に移動します。
みずほ銀行青山支店の前にも、もう一基の石灯籠が建っています。
みずほ銀行がある場所には戦争当時安田銀行があり、その入り口付近は空襲の際の避難所のようにもなっていて、空襲時にはここに多くの人が避難していました。
火に追われて逃げ道がなくなった人々は、安田銀行の中に逃げ込もうとしたものの、銀行の扉は開かず、多くの人がここで炎に巻かれて亡くなったという。
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みずほ銀行青山支店の入り口付近にある石灯籠。
安田銀行の前で亡くなった遺体は、巻き起こった火災旋風によって二階部分に達するくらいまで積み上げられ、この石灯籠の周りにも多くの焼死体が折り重なっていたという。
その様を絵で見たことがありますが、周囲に無数の焼死体を集める石灯籠は、帝都の臣民達の墓標のようでした。
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石灯籠の台座には、今でも焼夷弾で欠けた跡が残っています。
そして台座が黒ずんでいるのは、ここで亡くなった方から滲み出た、血と油が染み込んでいるからだそうです。
多くの人が足早に行き交う賑やかな表参道交差点に、人の死の痕跡を残す戦争遺跡が堂々と残っていること、そしてそれが違和感なく風景に溶け込んでいることに、平和を謳歌する今の帝都東京が、最近まで戦争の道を歩んでいたことを改めて感じさせられます。
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石灯籠の裏手には、「和をのぞむ」と書かれた追悼碑が建っています。
碑文には「太平洋戦争の末期、昭和二十年五月
山の手地域に大空襲があり赤坂、青山地区の大半が焦土と化しました。
表参道ではケヤキが燃え、青山通りの交差点付近では火と熱風により逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました。
戦争により亡くなった人々を慰霊するとともに心から戦争のない世界平和を祈ります。
港区政六十周年にあたりこの地に平和を願う記念碑を建立します」と書かれています。
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煌びやかなイルミネーションに包まれた表参道のケヤキ並木。
しかし山手大空襲の際は、投下された焼夷弾によってケヤキ並木は燃え尽きてしまい、当時から残っているケヤキは10本くらいしかないのだという。
残りは終戦から3、4年後、若木が植えられ、現在のケヤキ並木が作られました。
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太平洋戦争末期に行われた山手大空襲によって表参道は炎の川となり、その川は帝都臣民の焼死体によって埋め尽くされたという。
現在の表参道は煌びやかなイルミネーションで飾り付けられ、多くの人の笑顔で溢れており、とてもそのような過去があったことを感じさせません。
しかしほんの71年前、この道が遺体で溢れていたことに思いをつのらせると、娘が「ロウソクの灯火」と呼んだイルミネーションが、ここで亡くなった方々の無数の魂のように見えました。
この地で無念のうちに亡くなられた臣民達の魂に、安らかなる眠りのあらんことを。
(訪問月2016年12月)