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豊島区駒込に残る近代建築、「旧荻外荘」他を見学してきました。
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現在地は豊島区駒込にある都営霊園、染井霊園です。
「ソメイヨシノ発祥の地」上駒込村染井(現豊島区駒込)に位置するこの墓地は、園内に約100本のソメイヨシノが植えられており、春には桜の名所として親しまれています。
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またこの霊園には岡倉天心や高村光太郎といった多くの著名人が埋葬されており、当ブログで取り上げたこともある下瀬火薬の発明者、下瀬雅允も染井霊園に眠っています。
近くには下瀬火薬の製造所跡地に造成された西ヶ原みんなの公園もあります。
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この染井霊園、中央に桜並木となっている細い道路があるのですが、この道路、狭い道にもかかわらず車通りが多いです。
特にやたらスピードを出してくるタクシーが多くて危ない。
どうも国道17号から本郷通り、明治通りへ抜けるためのショートカット道路となっているようです。
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このショートカット道路を染井通り方向に進んでいくと、染井通りに出る直前にある曲がり角の向こうに、瓦葺きの近代和風建築の建物が見えてきます。
青いトタン塀の向こう側は天理教東京教務支庁の敷地内です。
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この和風建築は、天理教東京教務支庁の中の一施設で、現在は下宿施設として使われているものです。
しかしもともとこの建物は、築地本願寺靖国神社遊就館などを建築した大正~昭和初期の建築家、伊東忠太によって昭和2(1923)年に杉並区で建築され、昭和12(1933)年、太平洋戦争開戦直前の首相・近衛文麿が別邸として使用した「荻外荘」の一部です。
近衛文麿は太平洋戦争の敗戦後、A級戦犯に指定されたことを契機に服毒自殺しますが、昭和35(1960)年、荻外荘の約半分に当たる玄関・応接間・客間部分がここ駒込の天理教敷地内に移築されました。
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近衛文麿の別邸として、太平洋戦争開戦に伴う重要な国策の多くが、この建物の中で決定されました。
時の首相・近衛文麿が東條英機、松岡洋右らと会談し日独伊三国軍事同盟を決定した荻窪会談が行われたのがこの荻外荘であり、また、山本五十六が近衛文麿に対米開戦後の見通しを尋ねられ、有名な
「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてご覧にいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、対米戦争の回避に極力ご努力願いたいと思います」
と語ったのもこの荻外荘です。
歴史にifはありませんが、この時、はっきりと「戦えば必ず負けます」と言っていれば、対米開戦はなかったかもしれないと言われています。
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旧荻外荘の見学後、駒込の街をぶらりと歩きました。
旧荻外荘で決定した国策に従い開戦した太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月13日、東京北部地域(北区、荒川区、豊島区)に対しアメリカ軍による大規模な無差別空襲が敢行されました。
城北大空襲と呼ばれたこの空襲によって、豊島区はその四分の三が焼け野原になる甚大な被害を受けてしまう。
その影響は凄まじく、山手線巣鴨駅から巣鴨地蔵通り、庚申塚の辺りまで何もなくなってしまったそうです。
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巣鴨駅にほど近いこの駒込も焦土となったため、街並みは敗戦後に作られたものです。
しかし戦災を免れた建物もいくつか残っています。
このお洒落な集合住宅、ビラ・グルネワルトもそのひとつ。
建築は昭和13(1938)年、近衛文麿が不拡大方針を唱えながら増援派遣を決定し、全面戦争に突入して泥沼化していた日中戦争の真っ只中に建てられた近代建築です。
前庭の葉の落ちた二つの木々が、ミステリアスな雰囲気を醸し出す建物によくマッチしています。
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ビラ・グルネワルト隣に建つこの個人宅も近代建築です。
大正15(1926)年築。
この建物が建てられた年の12月25日、大正天皇が崩御し、元号が昭和へと変わり、やがて大日本帝国は経済不況から満州事変、日中戦争、第二次世界大戦へと突入していきます。
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その他に近代建築物はないかと街を歩いていると、ふと、街中にボロいレンガ塀を見つけました。
長手積みに積まれたそのレンガ塀は経年劣化が激しく、かなり年季が入っていて、綺麗で真新しい塀や建物が立ち並ぶ周囲にまったく溶け込んでおらず、一見目立ちませんがよく見ると目立っています。
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このレンガ塀、今は集合住宅の敷地境界塀として利用されているようで、写真中央の白いマンション「染井コーポラス」に沿うようにして東西に建っています。
染井コーポラスの建築年は昭和43(1968)年。
しかしこのレンガ塀は、劣化具合から見てもっと昔に造られたものだろうと思われます。
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約50mの間に渡って続いているレンガ塀。
レンガ塀をよく見ると染井コーポラスの側とは反対側に、塀を支える支柱がついています。
なるほどこのレンガ塀がかつて何を守っていたかはわかりませんが、少なくともレンガ塀が守っていたのは染井コーポラス側でなくその反対側のようです。
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染井コーポラスからレンガ塀を挟んだ、反対側(南側)を歩いてみます。
反対側には豊島区立駒込中学校や三井住友銀行駒込社宅・駒込寮、プラウド駒込といった大規模施設が建てられています。
旧軍事施設跡は教育機関や大型マンションといった大きな敷地を要する施設が建てられていることが多いというのが持論ですが、ここが軍事施設跡であったという話は聞いたことがない。
ちなみに豊島区立駒込中学校は、その創立が昭和27(1952)年と戦後の生まれです。
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フェンスの隙間から駒込中学校の敷地内を覗いてみると、敷地境界にさっきのレンガ塀と同じものを見つけました。
支柱がこちら側についているため、駒込中学校もレンガ塀の内側のようです。
かつては門があったらしき場所を、コンクリートブロックで塞いだ跡も見えました。
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レンガ塀は駒込中学の敷地に沿うようにして、南北に長く続いています。
しかしこのレンガ塀も、駒込中学校すべてを囲っているわけではなく、途中で途切れ、代わりに別の塀が建てられています。
明らかに過去の何か別の施設のために作られたレンガ塀であったので、帰宅後、古い地図をこの場所と照らし合わせてみました。
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〔この地図は、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」((C)谷 謙二)により作成したものです。以下同じ〕
というわけで、こちらは駒込地区の昭和20(1945)年頃の地図です。
下に山手線の巣鴨駅、右に駒込駅、中央に染井墓地(霊園)と染井通りがあります。
黄色く塗った場所がちょうど件の駒込中学校のあたりで、この時まだ中学校はありません。
代わりに、黒く太い線によって一帯が囲まれています。
これは塀を意味しているのでしょうか。
この場所に第二次世界大戦期、大きな何かがあったようです。
ちなみに赤く塗った部分が、本日確認できた塀があったあたりです。
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こちらは戦後に作られた、昭和42(1967)年の地図。
黒い太いラインで囲まれていた用地は姿を変え、「文」の地図記号が書かれています。
「文」は小学校及び中学校を表す地図記号で、これが豊島区立駒込中学校を示しているのは間違いありません。
つまり第二次世界大戦の敗戦後、なんらかの事情によりレンガ塀で囲まれた施設は姿を消し、そこに豊島区立駒込中学校などが建設されたようです。
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ここでちょっと地図で歴史をさかのぼってみます。
この地図は明治42(1909)年、韓国併合の前年のころの地図。
地図真ん中に書かれた「藤堂邸」の表記は、かつて染井墓地の近くにあった伊勢津藩藤堂家の下屋敷を示しています。
余談ですが、この藤堂邸の裏門は門と蔵のある広場に移築されて残っています。
まだ藤堂邸が地図にあったころ、駒込中学校の場所にはレンガ塀で囲まれた施設は地図に落ちていません。
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続いて大正8(1919)年、第一次世界大戦終結後の地図。
藤堂邸は地図からなくなり、現・駒込中学校の場所には何か囲いのようなものと、その中に二つの建物らしきものが出現しています。
レンガ塀とそれに囲まれた謎の施設は、この時造られたのでしょうか。
だとすると明治の終わり~大正期の近代建築物ということになります。
第一次世界大戦の大戦景気に沸くとともに、大正デモクラシーが起こるなど日本が繁栄を謳歌していたこの時代に、いったいどんな建物が造られたのでしょう。
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さらに時は進んで昭和4(1929)年、中華民国・奉天で張作霖爆殺事件が起きた翌年のころの地図。
囲いが若干拡張しており、昭和20年の地図と同じ大きさの用地となっています。
囲いの真ん中にはっきりと二つの建物が建っているのが判り、それ以外に建物は広大な敷地があるにも関わらず何もありません。
敷地面積は、線路を挟んだ向かいにある岩崎邸(現・六義園)の半分ほどにも及びます。
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再度、昭和20(1945)年の地図です。
ひょっとしたらここには、敷地だけが妙に広い個人の邸宅があったのかもしれません。
少なくとも終戦の年までは残っていたようですが、その年に起こった城北大空襲で被災した可能性もあります。
地図を比較検討して判明したのはここまでですが、豊島区の図書館などを訪問して、新たにわかったことがあったら記事にしたいと思います。
あと、知っている人がいたらどうかご教授ください。
(訪問月2017年1月)