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世田谷区下馬にある軍事遺跡、野砲兵第一連隊兵営跡地を歩いてきました。
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現在地は世田谷区と目黒区の境界付近、世田谷区池尻にある世田谷公園です。
世田谷公園といえばつい最近まで、『ポケモンGO!』のレアモンスターミニリュウが見つかるということですごい数の人が集まっていた公園です。
しかし苦情が発生したためか、今ではミニリュウの巣はなくなったらしく、この日ポケモントレーナーの姿は見かけませんでした。
ちなみに世田谷公園は、以前取り上げた陸軍練兵場「駒沢練兵場」の跡地に造成された公園です。
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そんな世田谷公園の西側には、年季の入ったアパートがずらりと建ち並んでいます。
この団地は東京都が戦後の高度経済成長期に建てた都営住宅「都営下馬アパート」です。
都営下馬アパートは昭和女子大学の南東に位置し、東西に長く40数棟のアパートが建ち並ぶ巨大団地です。
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都営下馬アパートは、太平洋戦争の敗戦によって不要となった陸軍用地に造られた団地です。
戦前この地域には、駒沢練兵場に隣接する砲兵部隊の兵営がありました。
当時の地図を見ると、近衛野砲兵連隊、野砲兵第一連隊、野戦重砲兵第八連隊といった近衛師団や東京第一師団の砲兵がここ下馬に駐屯していたことがわかります。
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ちなみに野砲と野戦重砲の違いは、簡単に言うならば扱う砲の口径の差です。
野砲とは砲の口径が75mm~105mmくらいの運びやすい火砲で、これに対し野戦重砲は野砲よりも大口径の加農(カノン)砲や大口径榴弾砲のことです。
写真は以前靖国神社遊就館で撮った加農砲と大口径榴弾砲で、いずれも野戦重砲です。
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敗戦で陸軍が解体され、不必要となった土地に東京都が建てた都営下馬アパート群。
高度経済成長期の昭和30~40年代に順次建てられたとのことで、アパート同士は微妙に形が違っています。
しかしいずれのアパートも老朽化は著しく、東日本大震災で建物の耐震性が問題となった今、アパートの大規模な建て替えが順次行われているようです。
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団地の中には、時折アパート取り壊しによって更地となった場所や、工事中の箇所が見られます。
この目の前の更地も、少し前まで都営下馬アパートの建物があったようです。
今は新しい都営アパートを建てる準備中でしょうか。
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更地の向こうには昭和女子大付属昭和高等学校の校舎が見えます。
軍用地の跡地には都営団地と学校というのがこのブログの持論ですが、ご多分に漏れず昭和女子大の敷地もかつての陸軍用地でした。
昭和女子大のある太子堂周辺は、近衛野砲兵連隊の兵営があったようです。
近衛野砲兵連隊は竹橋事件を起こした部隊として知られています。
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また、軍用地に公園も定番です。
ここは都営下馬アパートの団地内公園です。
都営下馬アパートは住民層の高齢化が著しいのか、休日の昼間だというのに一人も子供が遊んでいませんでした。
最近誰かが遊んだような痕跡もなく、荒涼とした雰囲気です。
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そんな公園の隅っこに、馬魂碑が二つ建っていました。
軍務により没した軍馬の魂を慰めるために建立されたものと思われます。
何百キログラムという重さになる野砲を戦場まで運ぶために馬の力が必要不可欠であり、野砲兵部隊にとって軍馬は生死を共にすべき戦友であったという。
碑の建立は昭和14(1939)年で、碑には「軍馬は我隊将士の死生を倶にすべき戦友」「其の最後に想い到れば憐憫の情に堪えず」などと書かれています。
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馬魂碑の隣には、更に二つの馬頭観音が建っていました。
仏教における菩薩の一尊である馬頭観音ですが、ここではおそらく馬の守護仏として祀られていたものと思われます。
左の馬頭観音には「軍馬梨山号 昭和十一年一月二十四日殉職」と刻まれていました。
二・二六事件が勃発する一ヶ月前のことですが、訓練中に亡くなったのでしょうか。
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都営下馬アパート内公園から西に100mほど行ったところに、「東京世田谷韓国会館」という一際年季の入った木造平屋建ての建築物があります。
この木造建物、どのような経緯で韓国会館になったのかはわかりませんが、野砲兵第一連隊の兵舎を改装したものだそうです。
この木造建物の他、敗戦後この地に残っていた陸軍の木造兵舎は、戦災で家を失った者や戦地からの引き揚げ者の収容施設となり、ここに移り住んだ者約1000人によって同胞支援会支部「世田谷郷」が形成されました。
その世田谷郷が後に都営住宅へと変わっていきましたが、この野砲第一連隊兵舎跡だけは何故か韓国会館として使用され続けたようです。
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第一師団隷下の野砲兵第一連隊は、太平洋戦争末期フィリピンに派遣され連合国軍と交戦、補給も断たれ玉砕寸前の状況に追い込まれてしまい、最後はセブ島で終戦を迎えています。
終戦後、日本国民全体が食糧難に苦しんでいた昭和21(1946)年5月、かつて野砲兵第一連隊が駐屯していた世田谷郷において「米ヨコセ世田谷区民大会」が開かれ、その参加者が皇居に押し掛ける事件が起きています。
その一週間後には皇居前で飯米獲得人民大会が起きていますが、すでにこのころGHQは日本の食糧難に対し食糧供給を始めており、これらの運動はこうした動きを無視し当初から政治的目的をもって行われたものでした。
敗戦とともに世の中が劇的に変わってしまった日本社会に、復員した将兵は何を思ったのでしょうか。
(訪問月2017年3月)

【以下は、2020年9月追記】
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旧陸軍野砲兵第一連隊の敷地南東端付近の場所に、陸軍軍用地境界標石が残っていました。
2020年9月現在の警視庁下馬寮の玄関口付近です。
手前側に「陸軍」との表記があります。
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その並びの交差点角にも、同じような境界標石がありました。
記載文字は見えませんでしたが、こちらも位置的に陸軍野砲兵第一連隊の軍用地境界標石で間違いないと思われます。
この境界標石が、かつての野砲兵第一連隊軍用地の南東端にあったもののようです。