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東京都北区赤羽台にある巨大団地、赤羽台団地を歩いてきました。
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現在地は帝都東京北の玄関口、JR赤羽駅から西へ徒歩10分ほどの位置にあるUR団地、UR都市機構ヌーヴェル赤羽台前です。
ヌーヴェル赤羽台は2006年9月に建てられたUR団地ですが、その前身は旧日本住宅公団(現UR都市機構)が昭和37年、赤羽台に建設した総戸数3,373戸からなる巨大団地「赤羽台団地」です。
高度経済成長期に建てられた赤羽台団地は老朽化が目立ち始め、現在UR都市機構によって順次建て替えが行われている状況です。
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2017年4月現在、建て変えられたのは赤羽台団地のほんの一部で、まだまだ赤羽台団地には昭和の団地が数多く残っています。
このユニークな形をしている団地「スターハウス」もそのひとつ。
スターハウスは上空から見るとY字型になっていて、中央に階段を配し、突き出た各部分を一戸の世帯が占めていて、すべての住戸が角部屋になっているという贅沢な作りのアパートです。
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赤羽台団地のスターハウスは昭和37(1962)年から昭和41(1966)年までに8棟建てられていますが、訪問時には4棟が残るのみでした。
もともとスターハウスは必要な面積の割に住戸数が少なく、5階建てでも15戸しか世帯が取れないためコスト面で効率が悪いことから、遠くない未来に消え行く運命にありました。
スターハウスは建設側だけでなく住む側にとっても、窓から隣の家の部屋が見えるなどの欠点があり不評だったそうです。
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赤羽台団地に残されたスターハウスのうちのひとつ、UR都市機構赤羽台団地42号棟。
日本では忌み数にあたり、番号がよくとばされる42ですが、赤羽台団地では特に問題なくつけられています。
しかしこのスターハウスも閉鎖の足音が迫ってきているのか、洗濯物等がなく、外観からは人の居住状況がないように感じます。 
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スターハウスの入り口の状況です。
陽光に照らされるベランダ側に比べ、入り口は薄暗く裏口のような印象があります。
入り口が封鎖されていないので、まだ居住状況はあるようです。
階段部分の異様な狭さが目に付きます。
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入り口はかなり狭く、入るにはかなり圧迫感を感じます。
この狭さでは、引越作業などでの家電や家具の搬送作業は大変だったと思われます。
加えて、エレベーターはありません。
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スターハウスの階段を上がってみます。
階段部分は三角の螺旋階段的な作りになっていて、吹き抜けとなって上へと延びています。
どこを歩いても足下の吹き抜けが見える特殊な形状のせいで、高所恐怖症ぎみな私は足が若干すくみました。
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階段と階段を繋ぐ狭い通路に、その階の三つの住戸の玄関ドアが集中して面している作りとなっています。
加えておそらく配電盤や倉庫等と思われる小さなドアもあり、通路はドアだらけで、かなり窮屈な印象があります。
しかしドアのほとんどは閉鎖されており、今後再び使用されそうな様子はありませんでした。
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最上階から、吹き抜けの階下を見下ろします。
スターハウス独特の形状が、いくつもの三角形を描いています。
何重もの三角に目がくらみそうだ…
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ところでどこで読んだのかは記憶にないのですが、最近、去年連載が終了したことで話題になった『こち亀』の総集編を出先で読む機会がありました。
その読んだ本の中に「団地物語の巻」という回があって、内容としては、両さんが高度経済成長期に建てられ、今やほとんど人が住まなくなった巨大団地に迷い込み、その団地のひとつ「スターハウス」に住む老人と会話する、というものでした。
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スターハウスの老人は太平洋戦争中、大日本帝国海軍の艦上偵察機「彩雲」に搭乗し、偵察カメラマンをしていた元日本兵で、老人は作中で自らが現在住まう団地を指し「この団地は軍用地に建てられたものだ」と語っていました。
スターハウスを擁する赤羽台団地が立つ高台・赤羽台も、戦前は陸軍の軍用地でした。
写真は北区の旧軍用地を示す地図ですが、地図上の赤羽駅のすぐ左側にある斜めに伸びた青色の軍用地が赤羽台の軍用地です。
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こちらは昭和7(1932)年ころの赤羽駅西側の地図です。
地図には「近工(近衛工兵大隊)」「工兵作業場」「火薬庫」「被服本廠」など軍施設を思わせる文言が落ちています。
太平洋戦争で敗戦するまで、赤羽は赤羽工兵隊の兵営や東京陸軍兵器補給廠等、陸軍の広大な施設が建ち並ぶ軍都でした。
この時赤羽台にも、「陸軍被服本廠」という軍事施設があったのです。
陸軍被服本廠は軍服や軍靴など、将兵の被服を生産管理していた工場兼倉庫で、軍人の被服のほとんどはここで生産されていました。
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スターハウスから赤羽台団地内を北へ約600m、徒歩7分ほど歩いた場所に、変わった外観の建物が建っています。
こちらは2017年4月に新しく赤羽台に開設された東洋大学赤羽台キャンパス。
敗戦後陸軍被服本廠の用地は米軍に接収され、赤羽ハイツ(米軍住宅)となりますが、返還後、跡地は赤羽台団地の他、北区立赤羽台中学校、北区立赤羽台西小学校、北区立赤羽台東小学校といった教育施設が建てられています。
しかし近年の少子化により赤羽台中学校と赤羽台東小学校は廃校となり、赤羽台中学校の跡地には東洋大学赤羽台キャンパスが開設されています。
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東洋大赤羽台キャンパスから八幡坂を下って、さらに赤羽駅方向へと進みます。
緩やかなカーブになっている坂の右手に、歩道に面した墓地が見えてきます。
その墓地の手前隅に、当時の陸軍被服本廠の敷地北西角を示す軍用地境界石が残っていました。
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墓地の傍らに佇む、「陸軍」と記載された軍用地境界石です。
赤羽被服廠は明治24(1891)年、まず赤羽台に被服倉庫ができ、その後大正8(1919)年に工場自体も本所区から移ってきて工場と倉庫が統合された被服本廠となり、その敷地は9万坪に及ぶ広大な工場でした。
この巨大な工場で働く作業員たちにより、当時の赤羽の街は活気に溢れていたそうです。
今では住民が高齢化し、小学校や保育園は次々と廃校・統合され、戦後の高度経済成長期に建てられた赤羽台団地も整備されつつある中で、この境界石だけが当時の活気溢れた赤羽を伝えているのかもしれません。
(訪問月2017年4月)