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北区赤羽台にある軍事遺跡、赤羽工兵隊兵営跡地を歩いてきました。
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現在地は以前取り上げたこともある、JR赤羽駅北西の東北・上越新幹線高架橋沿いを走る師団坂通りです。
赤羽駅からは徒歩圏にありますが、あまり人通りは多くありません。
この通りはかつてこの坂の上に位置していた、大日本帝国陸軍の近衛師団工兵大隊と第一師団工兵第一大隊の兵営の前を通る坂道で、その両隊との関係から師団坂、または工兵坂と呼ばれていました。
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近衛師団工兵大隊と第一師団工兵第一大隊は明治20(1887)年8月から9月にかけ、現在の丸ノ内から赤羽台に移転してきた工兵大隊です。
当時は二つの工兵大隊を合わせて「赤羽工兵隊」と呼び、工兵隊の兵営は「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれていました。
上地図の、一番上にある青色の場所がかつての赤羽工兵隊の軍用地です。
赤羽工兵隊は荒川周辺で爆破訓練や橋を架ける訓練などを行っていたそうです。
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師団坂通りには境内の下を東北・上越新幹線が通っていることで有名な神社、赤羽八幡神社が面しています。
赤羽八幡神社はJR赤羽駅から北へ徒歩7分の位置に鎮座する神社で、赤羽地区の鎮守です。
赤羽八幡神社は太平洋戦争の戦災を被っておらず、昭和6(1934)年に建造された近代和風建築の権現造りの社殿が残っています。
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社殿の裏手には、かつてこの神社に隣接していた陸軍第一師団工兵第一大隊の営内神社、赤羽招魂社が建っています。
赤羽招魂社は、第一師団工兵第一大隊の戦没者を慰霊するために建立された社です。
第一師団工兵第一大隊は西南戦争や日清・日露戦争、太平洋戦争といった日本の主要な戦争に従事し、解隊までに多くの犠牲者を出しています。
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赤羽招魂社の隣には「工一記念碑」という記念碑も建っています。
第一師団工兵第一大隊は太平洋戦争後期の昭和19(1944)年7月、連合国軍が迫るフィリピンに派遣され、ダグラス・マッカーサー元帥率いる米軍相手に戦うも同地で玉砕。
敗戦を機に、兵営の営内神社であった赤羽招魂社が赤羽八幡神社の境内に移され、赤羽出身の戦没者の霊も合祀するようになったこと等、部隊の歴史が記されています。
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敗戦後の昭和20(1945)年12月、陸軍の解体により帰る者のいなくなった兵営跡地は軍用地払い下げの抽選によって、イタリアカトリック系の星美学園が戦災孤児収容施設として取得しました。
昭和22(1947)年1月には同地に星美学園が開校し、現在も中高一貫の星美学園中学校・高等学校として運営されています。
このため師団坂通り周辺では時折、歩いているシスターの姿を見かけます。
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続いて師団坂通りを西へ進んでいくと、突き当たりに東京北医療センターが建っています。
東京北医療センターは国立病院の統廃合で廃止になった国立王子病院の跡地に建てられた医療施設です。
そして国立王子病院は昭和20(1945)年の敗戦までこの地にあった、近衛師団工兵大隊の兵営跡地に建てられた病院でした。
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東京北医療センターの南側は緩やかな下りの斜面になっており、下には春の桜の時期に多くの桜が花を咲かせる赤羽台さくら並木公園があります。
赤羽台さくら並木公園は東京北医療センターが建設された台地に沿うようにして、細長く掘り下げられている公園です。
これは、かつてこの場所が工兵隊の射撃場だったからであり、誤射した際にも弾が脇に逸れないようにという配慮がなされています。
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また、以前にも紹介しましたが、赤羽台さくら並木公園には当時の防空壕跡も残っています。
防空壕跡は公園の斜面にぽっかりと口を空けており、フェンスで囲われていますが外観を見学できます。
飛鳥山の防空壕のように、各地の防空壕が戦争の黒歴史として次々封印される中で、史跡として管理されている防空壕跡というのは珍しいですね。
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東京北医療センターと赤羽台さくら並木公園の南側の境界付近には、四つの石碑が密集して建っています。
いずれも近衛師団工兵大隊ゆかりの碑のようで、兵営のあちこちにあったものを戦後の軍用地売却後に何らかの事情で一カ所へ集めたものと思われます。
中でも目立つのは両端の大きな「御幸松」と「御手植松」の碑。
御幸松は当時の天皇が自ら植樹したことを記念する碑、御手植松は当時の皇太子が自ら植樹したことを記念する碑のようです。
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赤羽台さくら並木公園側から見る、石碑の裏側です。
御幸松の碑の裏には大正4(1915)年6月18日近衛工兵大隊長陸軍工兵大佐佐藤正武謹織、御手植松の碑の裏には大正4(1915)年5月9日近衛工兵大隊長佐藤正武建之と記載があります。
ということは、御幸松の碑が大正天皇、御手植松の碑が昭和天皇の植樹記念碑になるのでしょうか。
大正4年の5月、6月と連続して皇族が近衛工兵大隊兵営を訪れたようで、迎える工兵大隊はてんやわんやだったに違いない。
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さらに、赤羽台さくら並木公園の南東角には近衛師団工兵大隊の軍用地境界石が残っています。
公園南東角にゴミ置き場があるのですが、その裏に撤去を忘れられたかのような軍用地境界石が残っているのです。
なんでもいいですが、どうにも軍用地境界石が残っているところってゴミ置き場近くが多いような気がしますね。
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少し斜めに建っている、「陸軍用地」と記載がある陸軍軍用地境界石です。
近衛師団工兵大隊は太平洋戦争中、第25軍に所属して近衛輜重兵大隊などとともに近衛師団としてシンガポール攻略戦や蘭印・スマトラ島掃討作戦などに参戦し武功を挙げました。
また平時においては、花見の時期に兵営を一般開放したり、住民の依頼で新河岸川に架橋するなど、町の発展に貢献したそうです。
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赤羽台さくら並木公園から都道447号赤羽西台線を北赤羽駅方向へ進行していくと、新河岸川を渡す浮間橋が見えてきます。
現在の浮間橋は昭和59(1984)年に架けられたものですが、最初にこの場所に浮間橋が架けられたのは昭和3(1928)年5月のことで、架橋したのは近衛師団工兵大隊です。
荒川と新河岸川に囲まれ交通手段を渡船に頼らざる得なかった浮間地区の人々は、近衛師団工兵大隊に当時のお金で計六千円を拠金し、工兵隊は幅2間、長さ65間半の木造の橋を新河岸川に架けました。
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浮間橋の左岸には、二つの碑「浮間橋の碑」が建っています。
大きな碑と小さな碑が並んで建っていて、このうちの大きな碑の方が近衛師団工兵大隊が浮間橋を建設したことを記念する「旧浮間橋建設記念碑」です。
碑には漢文で以下の碑文が書かれていました。下は日本語訳です。
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郊外浮間里有名櫻草鮮
北方隔水路對横曾根邊
西南挟清流望志村翠煙
曩離北足立新併合岩淵
此地如孤島交通常乗船
憂慮萬一事頻希架橋便
里民咸應分醵出金六干
本町請軍衙以實情開陳
近衛工兵来施工盡力研
今日橋梁成如長蛇横川

郊外にある浮間里はサクラソウで有名だ。
北には横にとても長い水路があった。
西南は清流があり緑樹にはもやがかかっていた。
北足立は岩淵と合併した。
ただこの地は孤島のごとく渡船で移動をしなければならない。
橋がかかればいいのにと思っていた。
里の民は金六千を醵金した。
この町は軍にこれを依頼した。
近衛工兵は全力を尽くし施工した。
今日この長蛇の川を渡るための橋が完成した

 昭和三年四月二十六日
 建於岩淵町大字浮間 小柳通義撰文併書
(訪問月2017年7月)

《参考写真・昭和20年代の工兵隊演習場跡の高射砲》
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