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新宿区市谷八幡町にある神社、市谷亀岡八幡宮を歩いてきました。
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市谷亀岡八幡宮は、東京メトロ南北線市ヶ谷駅の駅前直近にある八幡神社です。
市ヶ谷駅を出て靖国通りを防衛省方向へ2、3分ほど歩いたところにあります。
写真右手の急な石階段を上がった先が、市谷亀岡八幡宮の境内となっています。
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階段を昇ると都心のビル群の中にあるとは思えない、市谷亀岡八幡宮の静かな境内が広がっています。
市谷亀岡八幡宮は、太田道灌が文明11(1479)年に鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として市谷御門内に勧請したことを始まりとしています。
後に江戸時代になり、江戸城外濠が完成すると、市谷亀岡八幡宮はもともと茶ノ木稲荷があったこの地に遷座してきました。
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しかし市谷八幡宮の社殿は江戸時代からのものではありません。
社殿は太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月25日に発生した山手大空襲によって被災し、神木のクスノキとともに灰燼に帰してしまいました。
現在の社殿は昭和37(1962)年に再建されたものです。
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社殿の右手には戦前における大日本帝国の侵略行為を正当化するために用いられた標語「八紘一宇」を彫った巨大な石碑が建っていました。
「世界を(日本のもとに)ひとつの家にしよう」というような意味合いで使われたこの言葉。
自分の家にいきなり赤の他人が「家をひとつにしよう」などと言って押しかけてくると考えると、かなり嫌なスローガンですね。
軍が建てたものではなく当時の東京市長が建てていることに、当時の国家がいかに軍国主義であったかが垣間見えます。
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社殿と八紘一宇の碑の間には、市谷亀岡八幡宮の裏参道があります。
この裏参道は左内坂から八幡宮隣の駿台予備校の裏手を回って社殿へとつながっており、八幡宮正面の急階段を昇らなくても参拝できるようになっています。
男坂と女坂みたいなもんでしょうか。
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裏参道の先は右へと折れ曲がっています。
右手の赤い建物は駿台予備校です。
建物と建物の間を抜ける路地のような参道で、裏参道と知らなければ道を間違えたと思って引き返してしまいそうな道です。
時期柄、参道の隅には紫陽花が咲いていました。
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その紫陽花の根本には、こっそりと境界石が建っています。
「陸軍用地」と彫られた軍用地境界石です。
参道左手のコンクリートの擁壁との境に建っており、境界石の上部は赤く塗られています。
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その境界石のすぐ近くにも、同じような境界石が建っていました。
これら境界石はもともと、太平洋戦争の敗戦までこの裏参道の左手にあった陸軍施設の用地境界を示す軍用地境界石でした。
上部に敷地境界を示す矢印が彫られており、現在においてもこの境界石は敷地境界標としての役割を果たしているようです。
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裏参道左手の擁壁の上、フェンスの向こうは防衛省の敷地「防衛省市ヶ谷地区」です。
防衛省市ヶ谷地区の敷地には戦前まで、大日本帝国陸軍の教育機関「陸軍士官学校」がありました。
陸軍士官学校は陸軍の現役兵科の将校を養成する学校です。
帝国主義の時代、陸軍士官学校への入学は当時の中学生にとって憧れであったという。
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さらに裏参道を進んでいくと、今度は「陸軍省所轄地」の記載のある軍用地境界石が建っていました。
この当時、陸軍士官学校は第一高等学校(旧制・現東大)、第三高等学校(旧制・現京大)、海軍兵学校などともに全国で最難関の学校のひとつでした。
陸軍士官学校や海軍兵学校の人気が高かったのは、陸海軍士官の社会的地位が高かったこともありますが、学費や衣食住費が無料だったこともあります。
当時の日本は貧しかったのです。
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軍人として戦うことが当たり前であった時代、多くの若者が入校を夢見た陸軍士官学校。
しかしながら敗戦によって世の中の価値観は劇的に反転し、軍にまつわるものはすべて「悪」として破壊されてしまいました。
そんな時代のトンネルをくぐり抜けて、当時の青年たちが青春を過ごした場所の軍用地境界石が、市谷亀岡八幡宮の裏参道にひっそりと残っています。
(訪問月2017年6月)