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もうすぐ、終戦記念日ですね。
戦争が終わったいい日みたいな感じですが、ぶっちゃけて言うと多くの人が亡くなった苦い戦争の敗戦日です。
暗澹たる敗戦の歴史を「終戦」などといってごまかさない方がいいんじゃないでしょうか。
さて、今回は72年前の終戦の日、行動を起こした近衛兵の兵営跡地を歩いてきました。
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現在地は千代田区九段南、東京メトロ東西線九段下の駅に近い九段会館前です。
九段会館は太平洋戦争の敗戦まで「軍人会館」と呼ばれ、在郷軍人会の本部が設置されており、予備役の軍人の訓練や宿泊等に利用されていました。
軍部御用達の建物で、二・二六事件の際には戒厳司令部にもなっています。
戦後はアメリカ軍に接収されましたが、接収解除後は国から日本遺族会へ無償貸与され、その名称が「九段会館」に改められています。
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鉄筋コンクリート造の洋風建築に和風の屋根をかけた「帝冠様式」の九段会館。
宿泊施設やレストラン、大ホール、結婚式場、宴会場などを擁し各種イベントに利用されていて、私も学生のころ、学校の課外授業として九段会館のホールで映画を見たことがあります。
しかし、2011年3月11日発生の東日本大震災にて天井が崩落、二名が死亡したことにより現在は閉鎖されています。
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そんな九段会館前から、北の丸公園を囲む牛が淵に沿って北へ歩き、九段下交差点を左折して靖国通りに出ます。
靖国通りから蓮の花が大量に浮かぶ牛が淵と、その向こうに九段会館の裏側が見えます。
牛が淵の右手の土手は、今回散策する北の丸公園です。
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靖国通りから北の丸公園の北端にある田安橋を渡って、北の丸公園に入ります。
こんなに暑苦しい日だというのに、北の丸公園へ散歩に行く人の数は多いです。
とりわけ欧米から来たと思われる外国人観光客の姿が散見されます。
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枡形門となっている田安門の高麗門、渡櫓門をくぐり、園内へと入りました。
旧江戸城田安門は、寛永13に建てられた貴重な歴史的建造物として重要文化財の指定を受けています。
その横手に、なにやら記念碑がひっそりと建っています。
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皇紀二千六百年植樹記念碑 陸軍少将 三浦真 書、と彫られている石碑です。
皇紀は神武天皇即位を紀元とする日本独自の年号で、皇紀2600年は昭和15(1940)年です。
皇紀2600年には国威高揚のための記念行事や記念事業が多数行われており、この植樹も当時の記念事業として行われたものです。
植樹から77年という歳月が経っていますが、横の枯れ木が植樹したものでしょうか。
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また田安門の脇にある緩やかな階段を上った先には、弥生慰霊堂があります。
弥生慰霊堂は警視庁や皇宮警察、東京消防庁の殉職者を祀る慰霊堂です。
毎年、初代警視総監川路利良大警視の命日である10月13日の前後に弥生慰霊祭が行われ、ここ弥生慰霊堂では職員等による献花が行われています。
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その弥生慰霊堂の横手には「昭和天皇御野立所碑」が建っています。
昭和5(1930)年、昭和天皇は関東大震災で打撃を受けた帝都の復興状況を視察しましたが、その第一歩がここであったことを記念する碑です。
碑の側面には「近衛歩兵第一聯隊會建之」とあり、この碑が近衛師団に所属する近衛歩兵第一連隊が建てたことを示していますが、これはかつてこの北の丸公園が、近衛歩兵第一連隊の駐屯地だったことに由来します。
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田安門の南側には日本武道館があります。
昨今様々なイベントが催される日本武道館ですが、もともとは柔剣道といった日本伝統の武道を普及奨励し、心身錬磨の大道場としての役割を担うことをその設立趣旨としています。
先ほど紹介した弥生慰霊祭では、弥生慰霊祭記念柔道剣道試合が警視庁や皇宮警察、東京消防庁の代表選手によって行われています。
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日本武道館の向かいには、大銀杏の木が立っています。
今ではまったく面影がありませんが、かつてこの大銀杏の付近には、北の丸公園に駐屯していた近衛歩兵連隊が使用していた弾薬庫があったそうです。
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日本武道館の南西にある相互会社国民公園協会皇居外苑ザ・フォレストというやたら長い名前の日本式洋食レストランの隣には、近衛歩兵第一連隊碑があります。
近衛歩兵第一連隊は日本陸軍最初の歩兵連隊として、明治7(1874)年に創設されました。
近衛歩兵第一連隊は全国から選抜された優秀な隊員で構成され、創設から太平洋戦争の敗戦まで71年余りの間この地に駐屯し、主に皇居の守備の任に当たっていました。
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また近衛歩兵第一連隊は大正天皇や昭和天皇が皇太子のころ連隊付きとして在隊しており、連隊のたいへんな名誉だったという。
近衛歩兵第一連隊は西南戦争、日清戦争、日露戦争、日中戦争といった大日本帝国の主要な戦争に出征し、戦地で武功を挙げています。
しかし太平洋戦争では、終始皇居守衛と帝都防衛の任に就き、戦地への出動はありませんでした。
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近衛歩兵第一連隊碑から北の丸公園を南に歩いていくと、今度は近衛歩兵第二連隊碑があります。
近衛歩兵第二連隊も近衛歩兵第一連隊と同じく日本陸軍最初の歩兵連隊として創設され、ここ北の丸公園に駐屯していました。
近衛歩兵第二連隊は第一連隊と同じく、日中戦争までの各戦役に出征していますが、太平洋戦争では専ら皇居の守りに就いています。
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近衛歩兵第一連隊と近衛歩兵第二連隊が太平洋戦争で表舞台に出るのはまさに終戦の日の、昭和20(1945)年8月15日のことです。
昭和20年8月15日未明、日本のポツダム宣言受諾と無条件降伏に反対し、徹底抗戦を叫んでいた一部の陸軍将校が、反乱を起こす「宮城事件」を起こしました。
宮城(皇居)を占拠するこの事件に、宮城を守備していた近衛歩兵第二連隊が関わっています。
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近衛歩兵連隊の兵営跡地は、東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)の裏手になります。
終戦の日の未明、宮中の占拠に近衛師団を用いようとしていた反乱将校たちは、近衛歩兵連隊が隷属するここ近衛師団司令部に押しかけ、クーデターに賛同しない森近衛師団長を殺害し、決起を促す偽の師団長命令「近作命甲第五八四号」を発しました。
近衛歩兵第二連隊の芳賀連隊長は偽の近衛師団命令に従い、部隊を展開して宮城の外周を封鎖、玉音放送の放送関係者を捕虜にします。
また近衛歩兵第一連隊も、一個中隊が玉音放送を阻止すべく内幸町の放送会館に派遣され、これを占拠しています。
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しかし東部軍管区司令部により、間一髪のところで近衛歩兵第二連隊に師団命令が偽物であったことが伝えられ、近衛兵は反乱将校を宮城から退去させます。
これによって反乱は鎮圧され、玉音放送は無事に流され、太平洋戦争は日本の敗北で終わりました。
そして終戦の翌月の昭和20(1945)年9月15日、近衛歩兵第一・第二連隊は解隊となって、明治以来71年余に渡る連隊の歴史に幕を下ろしたのです。
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旧近衛師団司令部庁舎の裏手にある見晴らし山を登ると、和園(いわえん)の碑があります。
和園は近衛歩兵第一連隊の兵営内にあった小庭園で、将兵の散策や憩いの庭として、また訓練や体操の場として長く親しまれていたという。
ちなみに「怡和」とは、「喜び和らぐ」の意であるそうです。
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和園の碑にほど近い、中の池の北西には昭和21(1946)年5月から昭和41(1966)年11月20日まで東京学生会館という学生寮がありました。
この学生寮は解隊となった近衛連隊の兵舎を再利用したもので、戦後、戦地から帰還した学生たちが旧近衛連隊兵舎に住み着き、「ここを学生寮に」と働きかけた結果、東京学生会館として利用することを認められたという。
以来東京学生会館は完全自治の学生寮として都内各大学の学生が居住し、合計で約3,000名の学生がここから巣立っていきました。
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その案内板が、なぜか北の丸公園内でなく代官町通りの代官町IC近くにあります。
ガイドマップには東京学生会館となった近衛連隊兵舎の絵が描かれていました。
近衛連隊の兵舎は昭和41(1966)年11月20日に取り壊されてしまいましたが、明治7年建造の煉瓦造りで、現存していれば貴重な文化財であったことが記されています。
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日本陸軍最初の歩兵連隊として創設され、大日本帝国の幕引きの舞台に立っていた近衛歩兵第一・第二連隊。
近衛歩兵第一連隊記念碑が建つ場所にあった全国近衛一会の案内板に、このような文がありました。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからずとは雖も、選ばれて近衛兵となり 輦下に奉仕せる吾等、たとい魂魄となりても永久に皇居を守護し奉らん」
その駐屯地であった千代田の森の奥深くに、連隊の記念碑と近衛師団の星章の碑が、今も皇居を守るように建っています。
(訪問月2017年7月)