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八丈島八丈町末吉にある展望台、名古の展望台を歩いてきました。
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現在地は八丈島の南東にある、末吉地区の名古の展望台です。
名古の展望台からは洞輪沢の湾曲した海岸美が観賞でき、右手には八丈島南端の小岩戸ヶ鼻まで見渡す事ができます。
天気のいいときにはここから島の遥か南方洋上に浮かぶ青ヶ島が見えるそうですが、あいにくこの日は見れませんでした。
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展望台には「名古秋月(なごしゅうげつ)」の説明板が立っています。
名古の展望は、以前紹介した大坂夕照と同じく、八丈八景のひとつです。
名古の展望は「末吉の洞輪沢〔ぼらわざわ〕一帯は名古と呼び、汐間温泉が湧出し、名古の滝があり、清水が人家を廻ってこんこんと流れる風光絶景、仙郷とも言うべきところである」として八丈八景に選ばれています。
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そんな八丈八景の場、名古の展望台の片隅には太平洋戦争末期に創立された帝国海軍特攻艇「震洋」の戦隊、第四特攻戦隊第十六震洋隊の記念碑がひっそりと建っています。
特攻艇「震洋」隊とは木造一人乗りモーターボートの艦首に爆薬を装着し、これに乗って集団で敵艦目掛けて突進する部隊です。
第十六震洋隊は昭和20(1945)年3月八丈島に派遣され、洞輪沢の岩壁に震洋を格納する壕を数本作り、アメリカ艦隊を待ち受けていたのです。
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昭和61(1986)年に建てられた第十六震洋隊記念碑の台座には、碑文がついています。
碑文には第十六震洋隊が震洋50隻、隊員は189名の部隊であり、うち搭乗員であった53名は海軍兵学校、兵科予備学生、特攻術准士官、飛行予科練習生出身の精鋭であり、年齢は17~18歳の若者であったと書かれています。
部隊には当初硫黄島への出撃命令があったが、すでに硫黄島では上陸戦が始まっていたため中止となり、次の戦場となることが予想される八丈島に布陣したとあります。
また碑文の末尾には、悠久の平和が祈願されていました。
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名古の展望台の眼下には、第十六震洋隊が陣地を構えていた洞輪沢漁港が見えます。
この漁港に面する山の中に、震洋を多数格納していた巨大な壕があるという。
しかし底土の回天隊と同じく、終戦まで八丈島の第十六震洋隊に出撃の機会はありませんでした。
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名古の展望台には、廃屋のようなコンクリート造り平屋が一棟建っています。
この建物、昔は休憩所として使われていたと思われますが、今は使われていないようです。
休憩所の前に無料で飲める島焼酎「情け嶋」の蛇口つき酒壺がありましたが、焼酎は出ませんでした。
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休憩所の正面引き戸は鍵がかかっておらず、建物の中に入れました。
10メートル四方くらいの土間は稼動中の自動販売機が一台と、忘れ去られたかのような小汚い椅子とテーブルがいくつかあるだけです。
自動販売機は部屋の真ん中に設置してあって、この店舗が営業をやめてから置かれたものであるとわかります。
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壁に貼ってあった簡易メニュー表。
どうやらここはかつて「ひょうたん島」という名前の軽食屋だったようです。
メニューが凄く安いですが、廃業になってしまった理由はなんなんでしょうか。
ところで軽食・喫茶はわかりますが昼カラって何ですかね。
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休憩所の奥にショーケースとカウンターがあります。
営業当時はここから明日葉ラーメンなどを出していたようです。
ショーケースの中には八丈島の民芸品が放置されていました。
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その隣にはもう一つショーケースがあります。
こちらには八丈島の重要無形文化財「かっぺた織り」の展示物が置かれていました。
これらは店が営業しなくなってからずっとこのままなんでしょうか。
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休憩所の壁には、たくさんの額縁が飾ったままになっていました。
なんだか、以前岩泉駅で見た『懐かしの岩泉線』写真展を思い出します。
額縁の中の白黒写真に、見たことのある顔がありました。
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昭和天皇です。
昭和57(1982)年11月昭和天皇は、八丈島行幸の際ここ名古の展望台に立って景色を眺めたという。
多くの随行員に囲まれ、名古の展望を楽しむ昭和天皇の白黒写真が、当時の名古展望台の栄光を伝えるように、誰もいない建物の壁に掲げられています。
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昭和天皇を最高指揮官として数多の日本人が戦った太平洋戦争の末期。
連合艦隊が壊滅し特攻しか戦う手段のなくなっていた日本海軍は、八丈島を海上特攻の要地とみて、水中特効兵器「回天」や水上特攻兵器「震洋」を多数配備しました。
しかしそこに配備された隊員は、若冠17、18歳の少年たちばかりだったという。
戦争のツケを少年の血で償う、そんなことが二度と起こることのないよう、碑と同じように悠久の平和を祈りたいと思います。
(訪問月2017年7月)