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八丈島八丈町大賀郷にある史跡、宇喜多秀家の住宅跡と墓を歩いてきました。
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帝都・東京から南へ約290km離れた太平洋上に浮かぶ島、八丈島。
八丈島は江戸時代において罪人の流刑地だったことで知られる島です。
このため八丈島は流人の島と言われていますが、別に島人の多くが流人の子孫というわけではありません。
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八丈島に送られた流人は慶長11(1606)年から明治4(1871)年までの約265年間に、1865人いたとされています。
当時の八丈島は食べ物の少ない飢饉の島だったので、流された罪人たちは絶望感に襲われ、自暴自棄から騒動や犯罪を起こす者がいて、元来の島民に不安を与えました。
しかし同時に流人たちは、その知識で八丈島の産業や生活、学問、文化の発展に大きく貢献をしたと伝えられています。
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現在地はそんな流人の歴史がある八丈島の中心付近、八丈町大賀郷にある八丈島郵便局前の八丈一周道路です。
八丈一周道路は文字通り八丈島を北から南まで一周している道路で、ここを走っていれば三根、大賀郷の坂下地区と、樫立、中之郷、末吉の坂上地区すべてを回れます。
八丈島は東京都であるため八丈一周道路は都道215号線であり、そのためか道路は離島とは思えないほどきれいに整備され、街路樹には椰子の木が一定の間隔で規則的に植えられています。
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また歩道の植込みにはハイビスカスの花が咲いていて、南国感が演出されています。
流人の島・八丈島ですが、島としてはあまり流刑地感を表に出さず、南国の花と緑あふれる島として観光客を誘致しようとしているようです。
しかし南国としてはどこか中途半端な感じで、いまいち南国に来たという感じがしません。
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なぜなら道路の左右には、普通によくある日本の田舎町が広がっているからです。
これだと南国雰囲気目当ての観光客は沖縄や海外に行ってしまうと思われます。
そっちの方がより「南国らしい」ですしね。
もうちょっと八丈島固有の歴史を前面に出さないと、釣りと海水浴頼みの八丈島観光産業は先細りになってしまうのではないでしょうか。
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八丈島固有の歴史といえば、やはり流人です。
そんな流人第一号は、日本史でも太平洋戦争の敗戦レベルで重要な分岐点であった関ヶ原の戦いで敗北した豊臣五大老の一人、宇喜多秀家でした。
宇喜多秀家は慶長5(1600)年9月、天下分け目の関ヶ原の戦いへ石田三成の西軍に副将格として参加し、その兵力は1万6000余と西軍最大の勢力を誇っていました。
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秀家の軍は関が原で東軍の主力・福島正則の軍と激突し、白兵戦を展開して一進一退の攻防を繰り広げました。
しかし、松尾山に布陣していた小早川秀秋らが東軍に寝返ると総崩れを起こして敗走、秀家は伊吹山中に落ち延びます。
秀家は追っ手を振り切り薩摩へと逃亡を果たしますが、最終的には島津家によって徳川家康へと引き渡され、慶長11(1606)年4月、33歳の若さで八丈島へと配流されてしまいます。
以後、秀家は明暦元(1655)年11月20日に83歳で死去するまで約50年間八丈島に留まり、島に子孫を残しました。
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そんな、歴史好きなどの観光客誘致には逸材といえる宇喜多秀家ですが、見た感じあまり八丈島で宇喜多秀家は盛り上がっていませんでした。
島の広告で宇喜多秀家が使われていたのは、この島人向けの楽天Edyの広告だけ。
宇喜多秀家をうまく使えば、いい島起こしになるんじゃないかなと思いますが、どうなんですかね。
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八丈島には宇喜多秀家の史跡として、「宇喜多秀家の住居跡」と「宇喜多秀家の墓」が残っています。
秀家の住居跡は、大賀郷の八丈一周道路と八丈中央道路を繋ぐ道路に面する茶屋、中田商店の裏手にあります。
看板はありますが、小さい上にちょっと隠れているので、車で島を回る人には場所がわかりにくいです。
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中田商店の駐車場を通り、その先にある個人宅の真横を通った先に住居跡があります。
住居跡には入れますが、私有地なので見学には配慮が必要です。
ちなみに手前にある大きなソテツは、宇喜多秀家が植えたものだそうです。
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住居跡には「宇喜多秀家住居跡」の碑が建っています。
周囲に池や水路などが残っていますが、建物は残っていないようです。
当時は住居をぐるりと石垣が囲み、巨大な椎の木があったそうですが、第二次世界大戦後、椎の木は大風の危険などから切り倒され、石垣も半分ほど崩されたそうです。
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続いて、住居跡から道路を北へ100mほど歩いていくと、左手に大賀郷稲葉墓地が見えてきます。
一見してよくある町中墓地ですが、この墓地の中に豊臣五大老の一人にして岡山57万4千石の太守、宇喜多秀家の墓があります。
案内の看板があるにはありますが、非常に小さくて気がつきにくいです。
あわや通り過ぎてしまうところでした。
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案内の矢印板に従って左に曲がると、その先にまた小さな矢印板があります。
宇喜多秀家の墓の案内矢印板なのに、なぜこんなに小さいんだと島の人に聞いたところ、台風も多く風の強い島では、大きな看板は飛ばされてしまうので付けられないとのことでした。
なるほど、納得。
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矢印板に従って墓地内に入ると、すぐに宇喜多秀家の墓と宇喜多一族の墓地にたどり着きました。
宇喜多一族の墓地は低い石垣に囲まれており、中央には大きな五輪塔が建っています。
この五輪塔が宇喜多秀家の墓です。
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五輪塔の表面には尊光院殿秀月久福大居士の戒名が彫られ、側面には宇喜多秀家の名が彫られています。
しかしこの五輪塔の墓は秀家が没した当時のものではなく、天保12(1841)年に秀家の子孫の手によって建て直されたものだそうです。
では最初の墓石はどこにあるんでしょうか。
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五輪塔の傍らに、卒塔婆の形をした小さな石塔が建っています。
こちらが、秀家の埋葬当初の墓だそうです。
かつては57万石の太守であった秀家も、流人となっては幕府の目もあり、最初は小さな墓しか建てられなかったという。
一度敵対した者はとことん弾圧する、戦国の時代を感じますね。
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「鳥もかよわぬ」といわれたほど絶海の孤島であった八丈島で、49年間流刑生活を送っていた宇喜多秀家。
宇喜多秀家住居跡近くにある八丈島歴史民俗資料館には、秀家関係の展示コーナーがあります。
帝都から約290km離れた南の島で、秀家関連の史跡や展示を見ながら、かつての戦国時代に思いを馳せるのも面白いですね。
(訪問月2017年7月)