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八丈島八丈町樫立にある軍用道路、防衛道路を歩いてきました。
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現在地は八丈一周道路、樫立の伊郷名バス停です。
ここ伊郷名はかつて湯郷名と呼ばれ、温泉が湧き出ていて大きな集落があったと言われています。
しかし宝永年間に起きた地震の際に温泉源が変わり、まったく温泉が出なくなったため人が去り、今ではわずかに数戸が残っている程度の地域だという。
この伊郷名バス停近くに、八丈一周道路から鉄壁山の方向へ曲がっていく防衛道路という狭い道があります。
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防衛道路は太平洋戦争後期の昭和19(1944)年3月に起工し、同年8月の竣工した道路です。
この道路は侵攻してきたアメリカ海軍の艦砲射撃によって八丈一周道路が破壊された場合に備え、島の中央部を縦断できるようにするために戦中急ピッチで造成されました。
そのため防衛道路と名付けられましたが、この工事は軍ではなく東京都が発注し、土建会社梅田組が請け負って造られたものだそうです。
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山間を走る防衛道路ですが、造成の経緯上、防衛道路沿いの山々にもたくさんの地下壕が眠っているという。
太平洋戦争末期の日本軍は、サイパン島の陥落やペリリュー島の戦いなどの戦訓によって島嶼防衛の定石だった水際撃滅を諦め、敵を島の奥深くに誘い込んでから一斉に攻撃する縦深配備へ戦術の転換を図っていました。
そのため本土決戦最初の砦と目されていた八丈島の島中にも、偽陣地も含め大量の洞窟陣地が構築されています。
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今回の目的地である人捨穴の真下にも、軍の掘った洞窟があります。
写真左隅に縦長のかなり狭い洞窟があり、ここは洞窟陣地というより坑道といった感じです。
壕口は鉄板を張って入れないようにしていたようですが、何者かによって鉄板は破られ通れるようになっていました。
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しかし坑道の中を覗いてみると、地下水が流れていて床は水浸しになっていました。
この坑道は、次回紹介する大坂トンネル横にある直射砲台跡に繋がっているそうです。
砲台の位置がバレて攻撃された際、防衛道路に逃げてこれるようにしていたのでしょう。
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その坑道から鉄壁山方向へ少し歩いたところに、唐突にこんな案内標識が立っています。
「人捨穴 入口←」と衝撃的な名称が書かれた案内標識で、通りがかりに見るとどきりとします。
しかしインパクトのある名称に比して、あまりに簡素な手書きの案内標識で、それがかえって不気味さを醸し出しています。
ここが今回の目的地、「人捨穴」の入り口です。
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案内標識の矢印に従い、緩やかな山道を登っていきます。
人捨穴はその名の通り、昔、人を捨てていたとされる洞穴です。
江戸時代、慢性的に飢饉が起きていた八丈島では、食料確保のための口減らしが頻繁に行われていたという。
当時の八丈島の人は50歳をすぎると口減らしのために誰もが人捨穴に捨て置かれ、捨てられた人は穴の中で黙って死を受け入れたそうです。
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山道を登りはじめてすぐ右、ちょうどさっきの坑道の上あたりに件の人捨穴はありました。
普通に立っては入れないような狭い横穴ですが、深さは32メートルあるそうです。
洞窟というよりは、地殻変動によりできた山の裂け目のような穴ですね。
大きな穴ではないのですが、人捨てというバックストーリーを知っているせいか、じっと見ていると胸苦しくなってくるような穴です。
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慰霊のためでしょうか、人捨穴の入り口にはお地蔵さんが建っており、ペットボトルのお茶などが供えられていました。
今でこそ大坂トンネルや防衛道路ができてアクセスの良い人捨穴付近ですが、昔は人も近づけないような山深く険しい場所であったという。
水も食糧もなくここに捨てられれば、たとえ生きたいと願ったにせよ年老いた体ではもとの生活の場に戻ることはできず、朽ち果てる他なかっただろう。
そんな人捨ての風習は、八丈島に新島からさつまいもが持ち込まれ食糧不足が解消されるまで続いたそうです。
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さつまいもは、文化8(1811)年、大賀郷名主・菊池秀右衛門武昌が新島から持参した赤さつまいも種を作り、八丈島に広めました。
さらに文政5(1822)には、その息子の小源太がハンスというさつもいも種を移入し、以後島の慢性的な飢饉は救われたそうです。
大賀郷の馬路にある菊池家の墓地には、それを記念する八丈島甘藷由来碑という苔むした石碑があります。
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じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな、三角の形をした人捨穴の内部。
ここに捨てられた人たちは、横になってただひたすらに自分に死が訪れるのを待ち続けていたという。
穴の中にいると、かつてここに入った人たちの、生きたいと願う本能と仕方がないという諦めの心、葛藤、悲しみ、苦しみなど様々な残留思念が伝わってくるような気がして、とてもこれ以上奥に入る気になれませんでした。
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なんとも重苦しい気持ちで人捨て穴を後にします。
今では考えられないほど飢饉の島であった八丈島を象徴する人捨穴。
島滞在中は親切な人々にたくさんご馳走していただいたので、こんな時代もあったというのが個人的にいまいち受け入れにくいですね。
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人捨穴から再度防衛道路に戻ると、道路沿いに大量のフェニックス・ロベレニーが栽培されているのが目につきました。
島のあちこちで栽培されているフェニックス・ロベレニー、通称ロべは、産業の少ない八丈島の経済を支える重要な観葉植物です。
この葉っぱが花束などの装飾用に、一枚30~50円で売られ、ロべ栽培は年収600万円くらいになるのだと、島の人が言ってました。
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人捨穴の横を通る防衛道路の先は、太平洋戦争中の八丈島防衛部隊、独立混成第67旅団司令部があった鉄壁山へと続いています。
この司令部壕にも興味がありますが、中は迷路のようになっていて迷うおそれがあるので行かないほうがいいと島の人に言われました。
流刑地、飢饉の島、そして太平洋戦争と様々な顔を見せる八丈島。
一般観光客向けの顔ではないのかもしれませんが、私のような者にとっては非常に興味深い顔です。
(訪問月2017年7月)