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八丈島八丈町大賀郷にある由緒正しき古の道、馬路を歩いてきました。
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現在地は八丈島の西側、八重根漁港近くに位置する八丈町大賀郷の大里地区です。
ここ大里の集落は旧家や有力家が多いところで、八丈島の伝統、六方積みと呼ばれる技法で積まれた玉石の石垣を見ることができます。
玉石垣はかつて流人が一つ一つ運んだものらしく、大里の玉石の数は全部で74737個になるそうです。
しかしまあ、よく数えたもんですね。
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そんな大里の集落の中で、一際高く玉石垣が積まれている所がありますが、ここは昔の役所であった陣屋跡です。
大里に陣屋が設置されたのは、八丈島が北条早雲の支配下となった室町時代末期の享禄2(1529)年のこと。
以後、明治41(1908)年に役所が大賀郷向里へ移転するまで、大里は島の政治の中心的場所でした。
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陣屋跡の東側には、八丈島歴史民俗資料館の裏の方へと通じる細い道路があります。
この道路を北へ進んでいくと、途中の空き地に八丈八景のひとつ、大里晩鐘(おおざとばんしょう)の解説板があります。
かつて島の中心であった大里には、陣屋の他に宗福寺と長楽寺という寺があって、朝夕に鐘をついていたそうです。
その鐘の音が八丈八景に選ばれていましたが、残念ながら明治以後に両寺は移転してしまって今はありません。
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大里晩鐘の解説板からさらに道路を北へ進んでいくと、やがて道沿いに玉石垣がなくなっていきます。
代わって右手には、山の斜面を削って造った墓地が見えてきました。
ここは八丈島の中でも歴史のある墓地のようで、この墓地内にある菊池家の墓には、八丈島にさつまいもが持ち込まれたことを記念する史跡「八丈島甘藷由来碑」の石碑もあります。
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墓地の横を通るこの道はかつて馬路と呼ばれ、八丈島ではもっとも古い由緒ある道だそうです。
馬路というと馬が歩いていた道なのかと連想しがちですが、八丈島には馬を飼っていた歴史はなく、八丈島で馬と言えば牛のことだという。
馬路とは要するに昔、飼っていた牛を大里集落に向かって牽いて歩いた道なわけですね。
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馬路は北上するに従ってさらに山深いところを通るようになっていき、片側が山の絶壁、片側は山の急斜面という道になっていきます。
馬路は昔の八丈島の面影をよく残す貴重な場所だという。
このような雰囲気が火山活動によって造られた島、八丈島の原風景なのでしょうか。
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その絶壁側の藪の中に、植物に埋もれるようにして黒々とした穴が空いています。
おや、こんなところに防空壕でしょうか。
しかしその壕口は、細い棒の柵で閉じられていました。
気になったのでカメラを柵の間から突っ込み写真撮影してみます。
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中は四角い形の、しっかりした造りの地下壕になっているようでした。
壕は半地下になっていて、今立っている所と壕床にはけっこうな段差があります。
奥はどこまで続いているのかわかりませんが、壁面や天井が丁寧に削られています。
ここは日本軍の築城隊が構築した正規の壕ではないでしょうか。
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そこから周りを見回して見ると、もうひとつ岩壁に同じような穴が空いていました。
さっきの地下壕口とそれほど離れていない場所にあります。
こちらの壕口にも、四本の鉄棒とロープで柵が施されています。
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柵の間から再びカメラを突っ込んで写真撮影します。
入り口はゴミと土砂が堆積しているものの、やはり先ほどの壕と同じような造りになっています。
こちらは奥で右にカーブしていて先が見えないようになっていました。
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この壕口の右を見てみると、枯れ木がどっさりと積み上げられています。
その枯れ木の裏側を見てみると、岩肌にもう一つ、壕口が見えました。
こちらは封鎖されておらず、入れるようになっているようです。
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枯れ木で埋まる足場から滑り降りるようにして、壕内に足を踏み入れました。
壕口付近は定番と言いますか、一升瓶や木屑が散乱しています。
入口は泥濘化してほとんど滑り落ちるように入ったので、あやうく怪我するところでした。
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おっと。
壕口付近の壁には何匹かのゲジが棲息していました。
ゲジは動かないし毒もない、見た目がキモい以外は害のない虫ですが、それでも嫌ならさっさと壕の奥深くに入るのが得策です。
虫も餌を確保しなければならないため、基本的には壕口付近にしかいないと思われます。
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奥に進むと道が左と正面に分れています。
奥がどうなっているのかよくわからないので、とりあえず適当に進んでみます。
壕の高さは、中腰になれば走っていけるくらいです。
壕の中は湿気が高く、ひんやりとしていました。
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地下壕は敵の侵入に備えてでしょうか、あちこちで分岐していて迷路のようになっていました。
大賀郷の大里地区は護神山に司令部を置く独立混成第十六連隊の第二大隊が守備を担当し、大隊の第五中隊と第七中隊、機関銃中隊が駐屯していたという。
ひょっとしてこの壕は、これら中隊のどれかが構築したものかもしれません。
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左右に道がある交差点。
しかし十字路ではなく、左右の道はクランク状になっています。
意図的にずらされて造られたようです。
敵が侵入してきた際、手榴弾や火炎放射器などで一気に制圧されないためにでしょうか。
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探索中、足元に子供用のお菓子の包みを発見しました。
いつの時代のものかはわかりませんが、八丈島各地に眠る地下壕は子供の遊び場となっていたようです。
子供の身長にはぴったりの地下壕ですしね。
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こっちはなんだろう?
上に向かって急な斜面になっている通路がありました。
滑らないよう足に力を入れて前進します。
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しかし奥は途中で閉塞し、中途半端な坑道になっていました。
閉塞部の手前に、砕いて掘り出したらしい大きな石が複数落ちています。
どこかの地下陣地につなげようとして、堅い地層にぶつかって断念したんでしょうか。
火山島である八丈島には溶岩が堆積していて、たいした掘削道具もない状態でこれを掘るのは大変な労苦だった思われます。
しかし兵士たちは、その壕がいずれ自分の墓場になることを思えば、苦しくても諦めずに掘り続けることができたという。
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壕内にはいくつか、四角い倉庫のようにやたら広くなっている場所もありました。
日本軍はアメリカ軍の攻撃に備え、いつでも壕内で生活をおくれる準備をしていたようで、疎開した島民の家財道具を壕内に運び込んでいたようです。
そうした家財道具は、こういう場所に置いていたんでしょうか。
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真っ暗の壕内にいると、自分の方向感覚がわからなくなってきます。
壕の中で迷う前に探索をきりあげて、光が射す壕口の方へ戻ってきました。
敗戦後、日本軍将兵は壕に運び込んだ家財道具を戻すことなく本土へ復員してしまったそうです。
そのため、疎開地から島に戻ってきた島人は、なくなった自分の家財道具を探しに、島中のこのような地下陣地壕を探索するはめになったという。
この地下壕も、そんな地下壕のひとつだったのでしょうか。
(訪問月2017年7月)