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港区赤坂にある軍事遺跡、乃木公園と旧乃木邸を見学してきました。
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現在地は東京メトロ千代田線乃木坂駅一番出入口直近、乃木神社の一の鳥居前です。
乃木神社は、日露戦争における旅順攻略戦で膨大な犠牲を出しながらロシア軍相手に勝利を収め、その後、明治天皇の崩御に際し殉死した陸軍将軍乃木希典とその妻静子夫人を祀る神社です。
乃木将軍については、近代日本軍の軍人としては海軍の東郷平八郎と並んでもっとも有名と思われ、今更説明する必要もないと思います。
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亡くなったとはいえ、一人の人間、それも軍人を神として祀る乃木神社。
今の時代ではまったく考えられないことで、今と当時では考え方が違うことを実感させられます。
しかし乃木将軍の神通力も太平洋戦争には関係なかったのか、本殿などは太平洋戦争末期の山の手大空襲で焼失してしまい、今の乃木神社は昭和37(1962)年に再建されたものです。
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乃木神社は乃木夫妻が自刃した旧乃木邸の隣地に建てられています。
乃木神社の一の鳥居近くには旧乃木邸の裏門があり、ここから旧乃木邸がある乃木公園に入ることができます。
乃木公園はもともと乃木将軍の邸宅地でしたが、将軍の死後その遺志により当時の東京市に寄贈され、大正2(1913)年に公園として開設されました。
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裏門から入っていくと、公園の神社側は庭園になっており、奥に旧乃木邸が位置しています。
旧乃木邸へと上っていく階段の途中に、「乃木大将夫妻えい血之處」と書かれた石碑が建っていました。
傍らの説明板によるとえい血之處とは、殉死した際に血が付いたもの(服など)を埋めた場所であるという。
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乃木大将夫妻えい血之處碑から、階段を登った先の外苑東通りに面して建っている旧乃木邸と馬小屋が見えます。
旧乃木邸は外観のみ見学可で、通常は中には入れませんが、毎年乃木夫妻が殉死した日とその前日の9月12日と13日は内部が公開されているそうです。
残念ながらこの日は公開されていませんでしたので中は未見ですが、水師営会見で会見卓として使われた緊急手術台などが展示されていました。
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旧乃木邸は後にして先に馬小屋を見学します。
馬小屋は明治22(1889)に建てられたとされており、煉瓦造り、日本瓦葺き平屋建て構造です。
旧乃木邸が木造なのに対し、立派な煉瓦造りであった馬小屋を人々は「新坂の馬屋敷」と呼んだそうです。
またこの煉瓦は、わざわざイギリスから取り寄せたものだとのことで、乃木将軍がいかに馬を大切にしていたかということが伝わってきます。
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この馬小屋には正馬の「壽(す)」号と副馬の「璞(あらたま)」号の二頭の馬が飼われていたようです。
壽号は日露戦争の旅順攻略戦で乃木将軍率いる第三軍と干戈を交えたロシア軍旅順要塞司令官、アナトール・ミハイロウィッチ・ステッセル将軍から贈られたアラビア産の牡馬です。
乃木将軍は壽号を明治39(1906)年種馬として鳥取県の佐伯牧場へと贈り、壽号は20余頭の子を残した後、大正8(1919)年5月27日島根県隠岐島で終命、その墓は今も隠岐島に残っています。
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そしてこちらは旧乃木邸、乃木夫妻が住んでいた木造日本瓦葺きの建物です。
旧乃木邸は乃木将軍がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計を基に明治35(1902)年に造ったものです。
正面玄関から見ると二階建てに見えますが、傾斜した地形が巧みに利用され、実際は半地下を含め三階建て構造になっています。
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乃木将軍は旧乃木邸を建てた二年後、当時の、軍の組織を薩長閥がほぼ同数で地位を占めるという習わしにより、旅順要塞攻略を任とする第三軍の司令官に起用されました。
しかし旅順攻略戦ではべトン要塞へ歩兵を突撃させるまずい戦争指揮をし、結果としてのべ10万人の攻囲軍のうち4万人の死傷者を出しています。
あまりに大きな犠牲が出たために、静子夫人が残る乃木邸は激怒した国民から投石され、窓ガラスなどが破壊されたという。
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旧乃木邸が投石されていたとき、乃木夫妻の二人の息子、勝典と靖典も日露戦争に従軍して戦死しました。
乃木は日露戦争終結後、愛児を失った妻が待つ乃木邸へ、そして愛児らを失った国民が待つ日本へ帰ることを嫌がっていたという。
二人の息子を失い、そして己の無力から万の兵士を殺してしまった罪の意識に生きる意欲を失ってしまった乃木は、最後の心の拠り所であった明治天皇が崩御すると、妻静子夫人とともにここ乃木邸で自刃しました。
今は明るい日の光に照らされ、見学や散歩に来ている人で賑やかな旧乃木邸ですが、悲しい過去をもつ邸宅です。
(訪問月2017年9月)