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清瀬市竹丘にある医療施設跡、傷痍軍人東京療養所跡地を訪問してきました。
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東京都と埼玉県との境に位置する清瀬市は、戦前から結核患者の療養施設があった「結核医療の地」であり、現在も多くの医療機関が建つ病院の街です。
清瀬の病院街には戦前からの結核療養所「東京府立清瀬病院」を受け継ぐ独立行政法人国立病院機構東京病院や、財団法人結核予防会が運営する元、結核研究所の複十字病院など結核医療の権威が集まっています。
現在地はそんな清瀬の病院街の中心地と言える、国立病院機構東京病院前です。
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独立行政法人国立病院機構東京病院のはじまりは、昭和6(1931)年10月20日に結核療養を目的として設置された東京府立清瀬病院です。
東京府立清瀬病院は清瀬の病院街でも一番最初に建設された病院で、この病院が設立された当時、周辺には農家と雑木林しかありませんでした。
その名残なのか、国立病院機構東京病院の裏手には今も雑木林が広がっており、中に遊歩道があって散歩できるようになっています。
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国立病院機構東京病院の施設の真新しさに比べ、裏手の雑木林の中はまったくの未整備状態になっています。
草木が生えるがままになっている、というだけならまだしも、鬱蒼とした林の中にはビニールハウスのような廃墟や、不法投棄と思われる家電などが散乱していました。
荒廃した様子の東京病院裏手ですが、この辺りにはかつて、東京府立清瀬病院の隣に設置された「傷痍軍人東京療養所」があったという。
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傷痍軍人東京療養所が設置されたのは、太平洋戦争開戦前の昭和14(1939)年11月8日のことです。
その二年後に勃発した太平洋戦争で大日本帝国が滅亡すると、新しくできた日本国に軍人は存在できなくなり、傷痍軍人東京療養所は厚生省に移管され国立東京療養所に改称。
昭和37(1962)年に国立東京療養所は清瀬病院と統合して国立療養所東京病院となり、これが現在の独立行政法人国立病院機構東京病院となっています。
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遊歩道を歩いていくと、道の左右にいくつかの案内板が立っていました。
こちらは「ここに寿館館ありき」と題された古い解説板です。
解説によると、ここには傷痍軍人東京療養所へ昭和14(1939)年に恩賜財団軍人援護会から寄贈されたという寿康館という建物があったという。
寿康館では傷痍軍人東京療養所の患者のために、祝日の祝いや精神講話、慰問演芸などが行われていたそうです。
しかしながら敗戦後、寿康館はほとんど手入れがされないまま放置されて荒廃し、昭和53(1978)年春に撤去された、と顛末が書かれています。
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寿康館解説板の左上には、寿康館の略図が載っています。
木造平屋建ての建物で、ステージ、講堂、広間、日本間で構成されていた寿康館。
その敷地は延べ641平方メートル、193坪とかなり広大な施設だったようです。
今では影も形もないのですが…
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「ここに寿館館ありき」解説板の奥には「再起奉公」と大書された石碑が建っています。
再起奉公の下には品書きがあり、昭和15(1940)年5月に恩賜財団軍人援護会東京府支部から傷痍軍人東京療養所へ寄贈の慰安施設として、
1.釣堀池
2.休憩舎
3.温室
4.大弓場
5.テニスコート
6.バレーボールコート
7.果樹園
8.広場
9.庭園
10.野外卓
11.腰掛
12.その他
と記載があります。
これに寿康館を含めると、傷痍軍人東京療養所はかなり巨大な療養所だったようです。
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「再起奉公」の碑の隣には、「外気舎記念館」と題された解説板があります。
かつて傷痍軍人東京療養所裏手の武蔵自然林内には、傷痍軍人東京療養所付帯の結核療養所として、外気舎と呼ばれる72棟の小屋が建っていたという。
外気舎は戦後も存続し、昭和41年に廃止されたがその一部を移転しここに記念館として永久に保存することとした、と解説が書かれています。
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「外気舎記念館」解説板の右下に、外気舎の略図が載っていました。
このように真ん中の診察室と食堂を中心に扇形に、72棟の外気舎が配置されていたようです。
ちなみに左上方にある赤く色づけした建物は、上述の寿康館です。
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外気舎記念館解説板の隣には、一棟の粗末な小屋が建っています。
この焦げ茶色の小屋こそが、移転され保存されたという外気舎記念館です。
かつては72棟あった外気舎ですが、現存するのはこの一棟のみだそうです。
この小さな小屋に、二人の結核患者が起居し、簡単な作業療法を行っていたという。
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外気舎記念館の東西の壁には半蔀(はじとみ)と呼ばれる、上半分が開いて外側へ吊り下げられる蔀(しとみ)戸がついています。
これは患者が起居する外気舎に外気を取り込み、空気の循環を良くするためのものです。
結核は抗結核薬のストレプトマイシンが発見されるまで、きれいな空気の中で栄養を取りながら安静にする以外に治療の手だてがありませんでした。
この半蔀、当時は寒い冬でも開けっ放しだったそうです。
ただでさえ隙間風のすごそうなこの木造建築、冬はさぞ寒かっただろう。
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建物は古く、倒壊の恐れがあるためなのか、外気舎記念館の四方はロープが張られていて近づけないようになっています。
また唯一の入り口である引き戸は、南京錠がつけられて入れないようになっていました。
昔は入れたそうですが、残念なことに今は窓から中を覗くことしかできません。
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引き戸反対側にある大きな窓から外気舎記念館室内を覗いてみました。
室内には古びた寝台が二つと、アルミ製の食器、当時の状況を写した写真などが残されていました。
中の掃除は今は行われていないのでしょう、室内は蜘蛛の巣や木屑だらけになっていました。
記念館とは言っても、あまり真面目に保存しようとしているわけではなさそうです。
残念ですね。
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旧日本軍の兵営の内務班などにありそうな、板張りの寝台。
患者はここに起居し、きれいな空気の中で簡単な作業療法を行いながら、結核の自然回復を目指していました。
ここに起居していた結核患者は、いつ治るともわからぬ病をかかえ、何を胸に作業療法を行っていたのでしょうか。
効果的な結核治療法のなかった当時の外気舎では、多くの人がここで亡くなったという。
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額に入れられて飾られている、当時の状況を写した写真。
雪に覆われた外気舎の写真が上段にあります。
きれいな空気の中で過ごすことが結核の唯一の治療方法であったとはいえ、このように雪が積もるところで、こんな小屋で窓を開けっ放しにして過ごすことは、咳や熱の続く結核患者にはさぞ苦しかったことだろう。
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外気舎記念館の向かい側には、埼玉県の安行から購入したというソメイヨシノを植え付けた「桜の園」が広がっていました。
桜の園がある場所にはもともと、昭和17(1942)年に傷痍軍人東京療養所が1万坪の土地を購入して造った農場と運動場があったという。
結核は今では抗結核薬が開発され不治の病ではなくなりましたが、かつては桜の花びらのごとく多くの命をこの清瀬の林に散らせた、恐ろしい国民疾患だったということを改めて考えさせられました。
(訪問月2018年1月)