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千葉県市川市にある軍事遺跡、野戦重砲兵第三旅団跡地を歩いてきました。
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現在地は市川市国府台にある千葉商科大学の学食「The University DINING」です。
最寄りの京成本線国府台駅からはちょっと遠いですが、フロアに350席あるこの学食は学生のみならず一般人も利用することができます。
The University DININGは「お洒落すぎる学食」とテレビで取り上げられたこともあるらしく、広くゆったりしたスペースとお洒落な雰囲気が特徴的な学食です。
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ランチメニューは550円のものと450円のものがありました。
本日の550円ランチはメインが鶏のチリソース、ポークチャップ、白身魚の野菜おろしあんかけの三種類の中からひとつと、サイドのジェノベーゼポテトサラダ、フリッタータ、ちくわの磯辺揚げ、水菜のサラダ、チョコムースの中からふたつ選ぶ形式。
長女と長男の子供連れで行きましたが子供たちは鶏のチリソースをたくさん食べ、特に娘はチョコムースを食べた時よほどおいしかったのかニコニコしていました。
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こちらは450円の海老とアボガドのスイートチリマヨ丼。
相方が海老とアボガド好きなので注文してきました。
子供たちは550円ランチを、相方は450円ランチをもっぱら食べてしまい、私が食べるものはほとんどなくなってしまいました。
子供たちが食べ散らかしたあと最後に残されたちくわの磯辺揚げは、とてもおいしかったです。
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そんなお洒落すぎる学食がある千葉商科大学の敷地は、太平洋戦争の敗北で大日本帝国が滅ぶまで帝国陸軍の用地でした。
太平洋戦争開戦前の昭和14(1939)年、千葉商科大学の敷地に駐屯していたのは陸軍野戦重砲兵第一連隊です。
太平洋戦争では緒戦のフィリピン攻略戦で戦果をあげた野戦重砲兵第一連隊ですが、戦争末期沖縄防衛の第32軍隷下で沖縄防衛戦に参戦し、連合国軍沖縄方面最高指揮官サイモン・B・バックナー・ジュニア陸軍中将を戦死させる戦果をあげた後、同地で玉砕しました。
この部隊が沖縄防衛戦で全弾撃ち尽くした九六式十五糎榴弾砲は、靖国神社遊就館に展示されています。
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上の地図は明治36(1903)年頃の国府台の地図です。
明治時代の初~中期にかけて、国府台には陸軍の下士官養成機関であった東京陸軍教導団の施設が置かれていました。
明治32(1899)年に陸軍教導団が廃止になると、東京陸軍教導団の跡地には野戦砲兵第一、同第十六、同第十七連隊の兵営及び野戦砲兵第二旅団司令部等が配備され、国府台は陸軍砲兵が闊歩する「砲兵の街」となっていきます。
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上の地図は昭和7(1932)年ころの国府台の地図です。
明治37(1904)年に日露戦争を経験して砲兵の強化が求められるようになっていくと、野戦砲兵はより強力な重砲を扱う野戦重砲兵へと改編されていきました。
昭和7(1932)年の地図では国府台の部隊は一新されており、野戦重砲兵第一、同第七連隊と騎馬砲兵大隊の兵営や野戦重砲兵第三旅団司令部が配備されているのが分かります。
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千葉商科大学の北側には陸上競技場や球場などがある国府台公園があります。
現在の国府台公園一体はかつて西練兵場と呼ばれた兵の訓練の場で、ここで砲兵の訓練などを行っていたようです。
ちなみに東練兵場は、国府台公園から北東方向にある市川市中国分地域一帯にありました。
砲兵という兵種の性質上、訓練には広大な敷地が必要だっただろう。
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国府台公園から松戸街道に出ると、目の前には和洋女子大学の正門があります。
このため松戸街道の歩道は女子大生ばかりで華やかでしたが、和洋女子大学の敷地ももともとは軍用地で、ここには前述の騎馬砲兵大隊や独立工兵第二十五連隊といった陸軍部隊が駐屯していました。
多くの学生が歩く大学前の松戸街道の切り通しは、軍が多数の囚人を使役して造った軍用道路だそうです。
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軍用道路の松戸街道を北上していくと、千葉県立国府台高校、東京医科歯科大学教養部といった教育機関が左手に並んでいます。
その先にある国府台病院前交差点で左折すると、桜並木のある中途半端な広さの通りに出ました。
この道はかつて「裏門通り」と呼ばれていたそうです。
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裏門通りの名は、かつて現在の国府台高校や東京医科歯科大学の敷地に駐屯していた砲兵部隊「野戦砲兵第十六連隊(のち、野戦重砲兵第七連隊)」に由来しています。
この通りには野戦砲兵第十六連隊兵営の裏門があったため、そう呼ばれていたという。
裏門通り沿いの東京医科歯科大グラウンド脇には、当時のものと思われるレンガ塀の残骸が今も残っています。
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裏門通りを真っ直ぐ進み、心霊スポットとして知られる里見公園の南西端にでたところで左折しました。
里見公園でちょっと子供たちを遊ばせたりしましたが、この公園の紹介は次回にします。
江戸川沿いの遊歩道「江戸川緑の道」に出ると、すぐ左手に巨大なコンクリート構造物が見えてきました。
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このコンクリート構造物は詳細は不明なものの、当時の軍が使用していた貯水槽だという。
場所的に、野戦砲兵第十六連隊若しくは野戦重砲兵第七連隊が使用していたと思われますが、貯水槽の上部はコンクリートでしっかりと蓋がされて、中は分かりません。
また貯水槽の裏にも何か建造物が見え隠れしていますが、藪に阻まれてよく見えません。
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江戸川緑の道を国府台駅方向へ進んでいくと、山側のフェンスの下に朽ちた鉄筋コンクリート製の塀の土台が残っていました。
普通に見るとただのぶっ壊れた塀の連なりにしか見えませんが、その形がこれまであちこちの軍事遺跡で見てきた軍用地境界塀に似ています。
確証はありませんが位置を考えても、もともと軍用地を囲っていた軍用地境界塀かもしれませんね。
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さらに進んでいくと、再び先ほどの朽ちた塀と同じ色型の軍用地境界塀が出現しました。
このあたりは市川市立第一中学校の裏手にあたります。
コンクリート塀は崖崩れ防止の擁壁として活用されているようですが、古くて崩壊のおそれがあるためからか、塀の向こうの斜面に「危険!立ち入り禁止」と大きく書かれていました。
立ち入ろうったって藪や鉄条網で入れそうにありませんが…
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やがて左の山の斜面が途切れ、T字路に出ました。
まっすぐ行った先はもう住宅地になっています。
左へ行くと階段があって、階段の先は筑波大学附属の聴覚障害者特別支援学校の方へと続いています。
このT字路に面している民家の足下に、軍用地境界標石が残っていました。
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光の加減でちょっとわかりにくいですが、右側に「陸軍」と記載されている花崗岩製の軍用地境界標石です。
筑波大学附属聴覚障害者特別支援学校の敷地ももともとは軍用地で、和洋女子大学と同じく騎馬砲兵大隊が駐屯していましたが、騎馬砲兵大隊が習志野に移動するとその跡地に独立工兵第二十五連隊が入ってきています。
この軍用地境界標石は、それら陸軍部隊の軍用地境界標石と思われます。
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左手の階段を登り、筑波大学附属聴覚障害者特別支援学校の方向へと歩いていきます。
筑波大学附属聴覚障害者特別支援学校の隣には、かつては陸軍の武器庫だった赤レンガの倉庫「旧千葉県血清研究所」が今もひっそりと建っているそうです。
この赤レンガ倉庫は今も国府台に残る貴重な軍事遺跡で、「赤レンガをいかす会」という団体が保存を訴えて見学会を行っていますが、千葉県は処分に向けて動いているようで2017年は見学会が行われていません。
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筑波大学附属聴覚障害者特別支援学校のそばを通り、旅団坂と呼ばれる坂を松戸街道方向に歩いていくと、途中に立ち入り禁止になっている公園がありました。
ここは里見公園の分園で桜の名所だそうですが、なんでも2017年10月に桜の老木が腐って倒れたらしく、桜の植樹検査をするまで立ち入り禁止になっているようでした。
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この里見公園分園はもともと国府台一帯に駐屯していた砲兵部隊の旅団司令部(野戦砲兵第二旅団司令部、のち野戦重砲兵第三旅団司令部)があったところです。
里見公園分園沿いの切り通しの坂が旅団坂と呼ばれているのは、旅団司令部に向かうための坂だったからでした。
里見公園分園には大きな丸いコンクリート製の蓋が載った防火水槽がありますが、これは当時の軍の貯水槽だと推測されています。
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かつての砲兵部隊の兵営跡地をぐるりと周り、学生たちが行き交う松戸街道へ戻ってきました。
軍が駐屯していたころの国府台界隈の松戸街道は、街を歩く軍人を相手に商売をする軍御用達商人が店を連ねていたそうです。
戦後七十数年で、街ゆく人は軍人から学生へと変わり、国府台は軍事都市から文教地区となって街も大きく変わったようですが、今でも「砲兵の街」の名残を街の各所に見ることができます。
(訪問月2017年12月)