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千葉県市川市国府台にある公園、里見公園を歩いてきました。
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現在地は市川市国府台の国立国際医療研究センター国府台病院前です。
国府台病院の始まりは前回の記事で少し触れた東京陸軍教導団の診療所、明治5(1872)年に創設された東京陸軍教導団兵学寮病室です。
東京陸軍教導団兵学寮病室はその後陸軍教導団が廃止されても国府台衛戍病院、国府台陸軍病院と名を変えながら存続し、大日本帝国が昭和20(1945)年に滅ぶと、その年の12月厚生省に移管され国立国府台病院となり現在に至っています。
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国府台病院前から裏門通りと呼ばれる桜並木の道路を西に320メートル移動すると、今回の目的地である里見公園に到着します。
今回はこの里見公園に、我が家の長女と長男の二人の子供たちを遊ばせにきたのです。
ところが到着前に長男は寝てしまったので遊んだのは実質娘一人となってしまいました。
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里見公園の入り口付近には、市川市教育委員会が設置した当地の解説板が立っていました。
解説板によると里見公園がある場所には、天文7年(1538)年と永禄7(1564)年に発生した国府台合戦において争奪の場となった国府台城という城郭があったそうです。
当然ながらその解説のほとんどは戦国時代のものですが、一番最後に突如としておまけのように「その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。」という一文があります。
そういえばそんなこともありましたねと言わんばかりの解説ですね。
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里見公園の敷地は大きく北側と南側の二つに分けられており、うち南側には西洋式庭園が造成されています。
この西洋式庭園のある場所には、かつては前述の国府台陸軍病院の分室があったと言われています。
その分室とは高いコンクリート塀で囲まれた陸軍病院の精神科病棟だったようで、戦後も国立国府台病院の精神科病棟として使われていたそうですが、今は取り壊されて遺構は残っていません。
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西洋庭園の一角に、中央に噴水のあるバラ園がありました。
ここはローゼンハイムガーデンというバラ園で、第二次世界大戦で大日本帝国とともに枢軸国であったドイツの市、バイエルン州ローゼンハイム市と市川市のパートナーシティ締結記念に寄贈された「マリア・リサ」というバラが植えられてるという。
しかし残念ながら訪問時は冬だったのでバラは咲いていませんでした。
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国府台陸軍病院精神科病棟に収容されていた軍人は、一般に精神に障害にもつとされていた精神障害兵士であると思われます。
しかしこの時代の軍隊において、公正な精神鑑定というものができていたかどうかはわかりません。
意外と軍にとって不利益な人間を、なんのかんのと理由をつけて放り込んでいたのかもしれませんね。
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ローゼンハイムガーデンの奥に、滑り台など子供用の遊具がたくさん置かれた広場がありました。
娘はこの滑り台が組み合わさったアスレチック遊具が気に入ったらしく、何度もブルーのスパイラル滑り台を滑っていました。
最近の公園の滑り台は安全を考慮してか滑り台にもかかわらず滑りにくいものが多くなっていますが、ここのは滑りやすいもののようで満足していました。
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遊具の置かれている広場は里見公園の北側南側のちょうど中間地点にあって、これより北側はあまり整備されていない野山のようなところになっています。
写真右側の林の手前に黒い柵がありますが、この柵は里見公園に隣接する曹洞宗寺院、総寧寺との境界線となっています。
この柵のすぐ向こう側、総寧寺の敷地内に軍用地境界標石が建っています。
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里見公園側からでは記載文字が撮れませんでしたが、横から見ると「陸軍用地」と記載されている軍用地境界石です。
今の里見公園と総寧寺の境界線は戦後になって決められたもののようで、当時の総寧寺と軍用地の境界線はこっちだったのでしょう。
また総寧寺境内には軍用地境界塀らしきものも残っていました。
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里見公園の北側半分は自然を残した樹林になっています。
この樹林の中には昭和8(1933)年まで里見八景園という遊園地(庭園)があったようで、今も園内にはその庭園の名残が残されています。
しかし大日本帝国が太平洋戦争へと突入する前にこの北側半分も陸軍が管理することになり、太平洋戦争中は樹林の中に多くの防空壕が掘られたという。
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防空壕の遺構を探しながら樹林の中を歩いていくと、里見公園の北限までやってきました。
里見公園の北半分には特に目につくようなものはなく、どうも防空壕はすべて埋め戻されてしまったようです。
この先は住宅地となっていました。
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さて、娘が遊んでいるアスレチック遊具のあるところまで戻るか…。
と、思ったら左の方に江戸川の方へと下っていく階段を見つけました。
こちらは里見公園の裏口のようです。
階段の先は細い坂道になっていて、江戸川沿いの道路の方に降りていけるようになっていました。
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右手の崖崩れ防止のためのコンクリート塀の上に、なんかの礎石のようなものが落ちていました。
石の真ん中から金具が飛び出しています。
金属の錆具合から昔、どこかで何かを固定していた金属と礎石のようですが、詳細はわかりません。
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坂道を降りきると、江戸川緑の道という江戸川沿いの道路にでました。
もう右手の台地の上は里見公園から住宅地へと変わっていますが、山の斜面には緑深い樹林が続いています。
太平洋戦争によって空襲の危険性が高まってくると、里見公園より北側の台地、つまりこの辺りに首都防空のための高射砲陣地が築かれたそうです。
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江戸川緑の道を500メートルほど北へ進みます。
すると右手に、南東方向から江戸川緑の道に合流してくる下りの坂道があります。
そこを里見公園に向かう方向へ登っていくと、坂の途中ににょきっと軍用地境界標石が建っているのを見つけました。
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「陸軍用地」と記載のある軍用地境界標石です。
太平洋戦争中はこの辺りに高射砲陣地が築かれ、この境界標石はその名残なのだそうです。
しかし当時の高射砲では、約10000メートルという高々度を飛来するB29スーパーフォートレス爆撃機を迎撃できず、東京大空襲山の手大空襲といった首都圏への無差別空襲を許してしまいました。
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境界標石を見学した後里見公園に戻ってくると抱っこしていた息子が目覚め、娘と二人で遊び始めました。
里見公園は今でこそ子供たちの笑顔が溢れる公園ですが、かつては陸軍病院精神科病棟、防空壕、高射砲陣地のある軍用地でした。
陸軍病院精神科病棟には、戦地で命令とはいえ自分の子供と同じような年頃の敵国の幼児を殺し、精神が破綻してしまった兵士もいたようです。
そんな時代が二度と訪れないよう、大人は誰もが高い教養と広い視野を持ち、この平和な世界を守っていかなくてはなりませんね。
(訪問月2017年12月)