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東京北区十条台にある区立公園、北区立中央公園を歩いてきました。
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現在地は北区の王子本町と滝野川の境を通る王子新道の、北区立中央公園前です。
北区立中央公園には昭和46(1971)年10月15日にアメリカ合衆国から日本へ返還されるまで、米陸軍施設「キャンプ王子」がありました。
北区立中央公園は、返還から五年後の昭和51(1976)年に跡地を整備して開園した公園です。
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米陸軍キャンプ王子内には、ベトナム戦争(1955~1975)最中の昭和43(1968)年3月から昭和44(1969)年12月までの間、ベトナム戦争の負傷兵を収容する病院、王子野戦病院がありました。
王子野戦病院はその開設にあたり、街の治安の悪化や伝染病の蔓延、ヘリコプター騒音など様々な問題の発生が予想され、これに対し学生を中心とした大規模な病院開設反対闘争が発生しました。
反対闘争の集会所のあった柳田公園からキャンプ王子前へ繋がる王子新道では、反対闘争の学生と治安警備の機動隊がしばしば衝突し、死者をだす事態にまで発展したという。
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王子新道に面する北区立中央公園の、キャンプ王子の正門があった辺り。
キャンプ王子正門前でも学生と機動隊の激しい衝突があったようですが、現在は綺麗に整備された公園になっていて、当時のデモの跡を感じさせるものは何もありません。
今回はこの王子野戦病院開設反対闘争の現場である、北区立中央公園を歩いてみたいと思います。
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《国土地理院HPの地図・空中写真閲覧サービスより出典》
2014年11月の記事で書いてますが、北区立中央公園のある土地は太平洋戦争の敗戦によって進駐軍に接収されるまで、大日本帝国陸軍の軍需工場、東京砲兵工廠銃砲製造所があったところです。
明治38(1905)年、日露戦争を機に銃砲増産の必要に迫られた日本陸軍は、それまで小石川地区の後楽にあった東京砲兵工廠銃砲製造所をここ十条台一丁目一帯に移転させました。
当時の陸軍省は、畑や雑木林があった十条台の十万坪の土地を三十万円で買収したそうです。
この頃の貨幣価値は今のお金の3313.5倍らしいので、現代ではざっと99億4千5万円といったところです。
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東京砲兵工廠銃砲製造所は、太平洋戦争開戦直前の昭和15(1940)年に東京第一陸軍造兵廠十条工場に改組され、戦争中も銃弾や信管、火具、無線機や電話機などを生産していました。
その軍用地は現在の北区立中央公園のすべてと陸上自衛隊十条駐屯地、王子本町アパート、東京成徳大学、十条富士見中学校、王子特別支援学校、北療育医療センター、障害者総合スポーツセンターを含む広大なもので、約四万人が働いていたという。
北区立中央公園の入口付近には、東京第一陸軍造兵廠十条工場の軍用地を囲っていた軍用地境界塀が今も残っています。
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北区立中央公園の正面には、白亜の重厚な建物「中央公園文化センター」が建っています。
この建物は現在では中央公園文化センターとして活用されていますが、もともとは昭和5(1930)年に東京第一陸軍造兵廠の本部として建てられたものでした。
外壁は最初、茶色のスクラッチタイルだったようですが、太平洋戦争の敗戦後進駐してきたアメリカ軍に接収され、その際白く塗り直されたそうです。
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中央公園文化センターの玄関前には、美しい車寄せとアーチ窓があります。
中央公園文化センターは建築当時の大正末期から昭和初期にかけて流行したアール・デコ風の装飾が随所に見られます。
今回の訪問では休館日で入れませんでしたが、中についてはこんな感じです。DSC_0198
また北区立中央公園文化センター横手には東京砲兵工廠銃砲製造所で使われていたボイラーの部品(ドラム、水管の一部、鉄製の扉)と鋼製耐震煙突銘板が展示されています。
左の鋼製耐震煙突銘板には「東京芝浦製作所製 明治三十八年八月竣工」と記されています。
この年月は東京砲兵工廠銃砲製造所が開設した年月で、時代を示す貴重なものであるという。
その割には野晒しですがね。
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銘板の裏に展示されているボイラーの、ドラムの内部は素通しのアクリル板が付けられていて、中が見学できるようになっていました。
なるほど、こんなふうになっているのか…
しげしげと観察していると、ふと、下から視線を感じました。
近代化産業遺産も、今となっては猫のお家になっているようです。
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北区立中央公園文化センターの裏手です。
東京第一陸軍造兵廠の本部棟は、接収後はアメリカ軍地図局として使われていたという。
戦前、北区の8%を占めるほどだった旧日本軍軍用地は、戦後になってもうち53.4%が進駐軍に接収され、TOD(東京兵器補給廠)として米軍用地になりました。
時代が進むにつれTODの接収は徐々に解除されていきますが、東京第一陸軍造兵廠本部棟を含むTOD第四地区の一部は最後まで解放されず、アメリカ陸軍基地「キャンプ王子」として昭和46(1971)年まで残っています。
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中央公園文化センターの裏側には、木々に囲まれた芝生広場があります。
帝都では数少ない広々とした空間を確保する公園に、我が家の子供たちは元気一杯に駆けだしていきました。
詳細な位置まではわかりませんが、この芝生広場の周辺に東京第一陸軍造兵廠十条工場の工場やキャンプ王子の王子野戦病院があったようです。
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「あっ。これはなんだ?」
芝生広場を走り回っていた子供たちが、足下に何かを発見したようです。
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木の枝で地面をひっかいている子供たち。
見ると、土の中に埋まっているレンガ片です。
なんでこんなところに?
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よく見ると、広場のあちこちにレンガ片のようなものが埋まっています。
そのほとんどは土に食い込んで容易に取り出せそうにありませんでしたが、一部、掘り出せそうなものもありました。
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掘り出してみると、それは四角い、中ほどで割れてしまった赤いレンガでした。
刻印は入っていないので、製造者や年月日等はわかりません。
果たしてこれらレンガ片はいったい…
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もともとこの地に建っていた東京第一陸軍造兵廠十条工場内の各工場は、平屋建ての赤レンガ造りのものでした。
写真は東京第一陸軍造兵廠十条工場の軍需工場で、取り壊されずに唯一残された大正8(1919)年造の275号棟を改造して建てられた北区中央図書館です。
北区中央図書館は、北区立中央公園のすぐ東隣に位置しています。
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かつては275号棟のような、赤レンガ造りの軍需工場が建ち並んでいた北区立中央公園の敷地。
キャンプ王子となってからもそのまま旧日本軍施設は使われていたから、これら埋まっているレンガは多分キャンプ王子が日本に返還され、施設が取り壊された際にそこかしこに蒔かれたものと思います。
他にもないかと思って落ち葉の中をよく見てみると、土に埋まっていない赤レンガも落ちていました。
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このレンガは、よくある長方形の形ではなく、正方形な形をしています。
よくあるレンガ壁に使われているのは長方形のやつばかりですが、正方形のレンガはどんなところで使われていたのでしょうか。
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「こっちにもあるよ!」
芝生広場をうろうろしてみると、所々にレンガが落ちていることに気づきました。
こちらはよく見かける長方形のレンガですね。
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「これはなんだ?」
さらに、子供たちが三角形をしたコンクリートの柱が広場の中に建っているのを発見しました。
これはなんだかよくわかりませんが、現在では無意味な位置にあることからキャンプ王子、もしくは東京第一陸軍造兵廠十条工場の遺構と思われます。
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子供たちが遊べそうな遊具を探して、芝生広場から中央公園野球場まで移動してきました。
今度は野球場を囲うフェンスの側に、中途半端にレンガを並べたオブジェを発見。
はて、これはなんでしょうか?
建物の外壁に使われていたレンガ壁?
しかしレンガの並びはイギリス積みの形ではありません(275号棟はイギリス積み)。
長手積みもしくはアメリカ積みですね。
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「わー!」
しげしげとレンガを観察していると、子供たちがレンガの上で一本橋渡りを始めてしまいました。
おかげでゆっくり見れませんでしたが、レンガの色が所々で違うところを見ると、建物の解体で出たレンガで造ったもののような気がします。
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野球場を通り過ぎ、障害者総合スポーツセンターの近くにある小さな公園にきました。
野戦病院の反対闘争を経てキャンプ王子が解放されると、都と区はキャンプ王子跡地を公園緑地と心身障害児の総合施設として利用することを決定し、現在の北区立中央公園や障害者総合スポーツセンター等が造られました。
公園にはちょっと古い型の滑り台や、雲梯のようなものが置かれています。
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子供たちはこの滑り台が気に入ったようで、寒いのに何度も滑っていました。
日露戦争を機に造られた軍需工場、第二次世界大戦、進駐軍による接収、ベトナム戦争の野戦病院、死者も出た王子野戦病院反対闘争と、激動の昭和を駆け抜けてきた北区立中央公園。
現在ではわずかにその跡を残しながら、区民の憩いの場になっています。
(訪問月2018年2月)