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文京区大塚にある軍人墓地、音羽陸軍埋葬地を子供たちとともに歩いてきました。
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今回の目的地は、護国寺駅を降りてすぐのところにある真言宗豊山派の寺院、護国寺です。
現在地は東京メトロ有楽町線護国寺駅四番出入口直近の、不忍通りにかかる歩道橋の上です。
不忍通りは帝都の中心地である千代田区と台東区、文京区を結ぶ幹線道路だけあって車両通行量がすこぶる多いところです。
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この場所は不忍通りの護国寺西交差点の近くの歩道上です。
護国寺西交差点の護国寺側歩道を歩いていると、連れてきていた我が家の子供たちが友成フォーサイトビルの足下に何かを発見したようです。
さて、ピンクの上着を着た娘が触っているのは何でしょうか。
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娘が「なでなで」とか言いながら撫でているのは、斜めになった旧日本陸軍の軍用地境界標石でした。
花崗岩製の標石は縦書きで「陸軍省」とまで読み取れます。
それ以下は地中に埋もれていますが、これまでの経験上おそらく「陸軍省所轄地」と記載があるものと思います。
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軍用地境界標石から不忍通りを東に進み、目的地である護国寺の仁王門にやってきました。
護国寺の仁王門は江戸時代における護国寺創建当時のものであり、両脇には金剛力士像が立っています。
娘は右側の金剛力士像の阿形像を指さして「◯◯(弟の名前)に似てる!」と言ってました。
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関東大震災や東京大空襲にあいながらも、元禄10(1697)年に建立された当時の姿をとどめているという護国寺の本堂。
護国寺は天和元(1681)年、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の願によって、幕府の祈願寺として創立されました。
しかし明治維新後は、後ろ盾であった江戸幕府を失ったことで経済的に困窮した時期があったという。
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本堂右手には、報國六烈士碑という顕彰碑が建っています。
顕彰碑にいう六烈士とは日露戦争時にロシア軍内に潜伏し、鉄道爆破を目的とする特務に就いていた民間の六人の志士のことです。
六烈士は日露戦争が勃発した際、ロシア軍の背後攪乱のため満州の嫩江に架かる鉄橋爆破の秘密訓令を受け、敵陣に潜行するも失敗してしまいました。
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護国寺本堂裏手には境内墓地と、皇室の墓地である豊島岡墓地が広がっています。
豊島岡墓地は江戸時代五万坪あった護国寺の境内地のうち、明治維新後に東側の二万五千坪を召し上げられて造られたものです。
またこれと同時期、同じく境内地西側の五千坪に、陸軍の軍人墓地「音羽陸軍埋葬地」が造られました。
この明治政府による召し上げによって、護国寺境内地は五万坪から二万坪に減少してしまったという。
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護国寺西側境内墓地の南端には、前述の友成フォーサイトビルとの境界線の塀沿いに当時の軍用地境界標石が残されています。
先ほどの不忍通り上の境界標石と同じく「陸軍省所轄地」と記載のある軍用地境界標石です。
これらの軍用地境界標石から北へ向かって延びる現在の護国寺の西側境内墓地は、明治期に造成され、大日本帝国の滅亡によって陸軍が解体されるまで、陸軍省が管理する陸軍軍人墓地「音羽陸軍埋葬地」だったのです。
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参考までに、明治時代の護国寺の地図です。
左側の陸軍埋葬地が音羽陸軍埋葬地。
こんな感じになっていたようです。
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音羽陸軍埋葬地では日清戦争以来の東京第一師団、近衛師団、在京各部隊などの戦死者等2428柱を、その殆どが軍装のまま地下3~5メートルの所に土葬していたという。
しかし第二次世界大戦の敗北で大日本帝国が滅亡し、陸軍省が解体されると昭和24(1949)年10月、音羽陸軍埋葬地の権利は再び護国寺に譲渡されました。
音羽陸軍埋葬地はその後護国寺によって改装整備され、現在は縮小された新埋葬地のみが護国寺境内墓地の北西奥に残っています。
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護国寺の西側境内墓地の一角にある、この門の先が改葬・縮小された新しい音羽陸軍埋葬地の埋葬地です。
この場所はもともと旧音羽陸軍埋葬地の中にあった、320坪の将校用墓地だったという。
陸軍の徽章である五芒星(星章)がついた門には閂が掛かっていますが、鍵はかかっておらず誰でも開けられるようになっています。
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新埋葬地内に入ると、まず右手に音羽陸軍埋葬地英霊之塔の由来碑がありました。
由来碑には、音羽陸軍埋葬地の過去から現在までの経緯が記載されています。
由来碑の隣には何故か、28センチメートル砲弾も置かれていました。
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28センチメートル砲弾を物珍しそうに見る子供たち。
縮小された音羽陸軍埋葬地は中央に英霊之塔が建ち、その周囲(左右)に有縁墓地四十基を配す形になっています。
もともと2428柱の遺体が遺体があったという音羽陸軍埋葬地、縮小された際に残されなかった墓石はどこにいってしまったんでしょうか。
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埋葬地奥にある黒い石塔が音羽陸軍埋葬地英霊之塔です。
英霊之塔は殉国の英霊を祀るため、昭和32(1957)年護国寺によって建立されたものです。
毎年11月には埋葬地に眠る殉国者の遺徳を偲び、ここで慰霊祭が行われるという。
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英霊之塔の右には、陸軍軍人合葬之墓と書かれた石碑が建っています。
碑の側面には「明治三十七八年戦役死没将校以下遺骨」と記載されています。
明治三十七八年の戦役とは、要するに日露戦争のことですね。
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英霊之塔の左にも、陸軍軍人合葬之墓と書かれた石碑が建っています。
こちらは側面に「満州事変死没将校以下」と記載があります。
昭和6(1931)年9月18日に発生した満州事変で亡くなった将兵を対象とした合葬墓のようです。
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また新埋葬地西側にあるこちらは、多宝塔というものだそうです。
近くに多宝塔について解説する護国寺多宝塔由来の碑というのもありました。
それによると、この多宝塔は日本初の忠霊塔として明治25(1892)年12月21日に富山で建立されたもので、日清戦争(1894)で戦病没した軍人の遺骨を明治35(1902)年11月この塔の下に埋葬し、慰霊祭が行われたという。
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さまざまな戦役の合葬墓がある音羽陸軍埋葬地。
しかしもっとも大きな犠牲者を出したアジア・太平洋戦争の合葬墓はないようでした。
英霊之塔がそれに当たるんでしょうかね?
敗戦により縮小されてしまったためでしょうか、音羽陸軍埋葬地は何かが足りないというか、どこか寂しい印象を受ける墓地でした。
(訪問月2018年2月)