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新宿区戸山にある軍事遺跡、陸軍軍医学校跡を歩いてきました。
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突然ですが、このゲームを知っている方がいるでしょうか。
『ざくろの味』というタイトルで、1995年12月22日にイマジニアからスーパーファミコン向けに発売されたゲームです。
『ざくろの味』は当時チュンソフトの『かまいたちの夜』でジャンルが確立し、翌年乱発されたサウンドノベル型アドベンチャーゲームのひとつでした。
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ゲームの内容は、旧日本軍によって極秘裏に開発されていた「人間の死体を蘇らせ、ゾンビとして敵兵を襲わせる」という兵器『柘榴』が今も新宿の地下に残っていて、地震による地滑りで地下の軍事研究所跡に落ちてしまった人々がゾンビに襲われながら地下から脱出する、というもの。
当時は「なんでわざわざ新宿の人口密集地帯でゾンビ研究を?」と思ったものですが、このゲームのシナリオは時代的に、1989年の新宿区戸山における建設現場での人骨発見問題を下地にひいたものかもしれません。
というわけで、今回はこの人骨発見問題を取り上げたいと思います。
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《国土地理院のHPから出典》
さて、こちらは昭和11(1936)年ころの新宿区戸山付近を上空から撮影した空中写真です。
写真左手にある施設群は以前紹介した、箱根山の陸軍戸山学校です。
その陸軍戸山学校の右隣、この空中写真中央に今回の目的地である陸軍軍医学校と東京第一陸軍病院が写っています。
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現在、かつて陸軍戸山学校があった箱根山から東側のところには都営戸山ハイツアパートと、国立感染症研究所や国立国際医療研究センター病院という厚生労働省所管の医療機関が建っています。
現在地はその国立感染症研究所と国立国際医療研究センター病院の間を通り、大久保通りへ下っていく坂道です。
写真左手に国立感染症研究所が建っています。
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先述の人骨問題とは、1989年7月22日、ここ国立感染症研究所を建設していたところ、建設現場から100体を超える人骨が発見されたというものです。
今この国立感染症研究所が建つ敷地は、かつては陸軍軍医学校があったところでした。
そして地下から発見された人骨には銃創痕や、頭部にかなり実験的な手術の痕があったこと、そして人体実験をしていたことで知られる731部隊と関係の深い防疫給水室が軍医学校内にあったことから、陸軍軍医学校も人体実験をしていたのではないのかということが問題になりました。
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しかしもともと陸軍軍医学校には、多数の人体の標本が保管されていたという。
軍医学校は戦傷例の研究のために、中国大陸から遺棄された中国兵戦死体の頭部などを標本として持ち帰っていたと言われており、人体実験が行われていたかどうかは時間が経過していたこともあって、結局のところ判明しませんでした。
人骨問題は詳細な経緯が解明されないまま、国立感染症研究所の敷地内に人骨の霊を鎮めるための慰霊碑が建立されただけで歴史の闇に埋もれることとなりました。
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国立感染症研究所の隣は新宿区立障害者福祉センターとなっています。
この障害者福祉センターの敷地も、かつては陸軍軍医学校の用地でした。
玄関先に「焼きたてパン」と大書された桃太郎旗が立っています。
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ちょうどお昼時ということもあり、ずかずかと入り込んで一階ロビー「エスポワール」のイートインで手作りアンパンや塩バターパンを食べる我が家の子どもたち。
パンは福祉センター三階の新宿福祉作業所で作っている焼きたてパンで、私はほうじ茶餅パンという変わったパンを食べましたが歯ごたえがあってとてもおいしかったです。
まったく無関係の大人一名だとなかなかこういった施設には入りにくいですが、子供連れだと遠慮なく入れるのでありがたい。
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新宿区障害者福祉センターを出ると、目の前の道路を挟んだ反対側歩道には石垣のようなコンクリートの擁壁があります。
コンクリート擁壁をよく見ていくと、何やら放物線状に色が変わっているところがありました。
かつては横穴があったところに、後からコンクリートで塞いだような痕です。
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コンクリート擁壁の上は国立国際医療研究センター病院の敷地になっています。
この国立国際医療研究センター病院は、太平洋戦争の敗北で陸軍が解体されるまで陸軍省所管の東京第一陸軍病院でした。
この封鎖された横穴は、陸軍軍医学校と東京第一陸軍病院を地下で結ぶ坑道であったと言われています。
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坂道を南下して大久保通りに出て、国立国際医療研究センター病院に行ってみます。
病院内のタリーズコーヒー近くに、病院の資料展示室があるので入ってみました。
資料室には病院の歴史を紹介する展示パネルや写真、顕微鏡などが展示されていました。
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展示資料の中でも目を見張るのが、陸軍軍医学校で第7代と第12代校長を務めた森鴎外愛用の執務机。
ちなみに森鴎外が亡くなったのは大正11(1922)年のことです。
関東大震災(1923)が起きるまで陸軍軍医学校は麹町区富士見町にあり、鴎外が校長を務めたのはこの富士見町の軍医学校で、戸山の軍医学校ではないことに留意です。
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こちらは昭和29(1954)年3月1日のアメリカ軍によるビキニ環礁での水素爆弾実験で被爆した第五福竜丸の模型。
「死の灰」を浴びた第五福竜丸の乗組員たちは帰港後、東京大学付属病院と国立東京第一病院(後の国立国際医療研究センター病院)に入院しました。
この第五福竜丸模型は、乗組員が退院した時に寄贈していったものだそうです。
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国立国際医療研究センター病院に一時入院していた元日本軍人、横井庄一さんと小野田寛郎さんに関する展示パネル。
横井庄一さんは昭和47(1972)年にアメリカ領グアム島で、小野田寛郎さんは昭和49(1974)年にフィリピンのルパング島で発見された旧日本陸軍の生き残りです。
陸軍中野学校出身の情報将校として終戦後28年間も戦い続けていた小野田寛郎さんは、健康体であったため即時退院を申し出たが、現代の日本社会には受け入れてもらえず腹立たしかったと語っています。
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この資料展示室に「東京第一陸軍病院では戦時中から脳外科手術を行っており、脳外科手術に輝かしい功績を残した」とかいう資料がありました。
このことから中国大陸から集められていた戦死体の話や、発掘された頭部に実験的な手術痕のある人骨は、この脳外科手術のためのものという可能性が高いような気がします。
しかし長い時間が経過した今となってはそれを裏付けるものは何もなく、人骨問題の真相は今も歴史の闇の向こう側に残されたままとなっています。
(訪問月2018年3月)