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新宿区若松町にある軍事遺跡、陸軍砲工学校跡を歩いてきました。
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現在地は新宿区戸山の戸山公園箱根山地区にある箱根山の山頂です。
箱根山は山手線内で最も標高の高い人造の山として知られています。
本日はこの戸山公園箱根山地区に、子どもたちを遊ばせにやってきました。
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以前の記事で紹介していますが、箱根山のある戸山公園箱根山地区には太平洋戦争の敗戦によって帝国陸軍が解体されるまで、陸軍の教育施設「陸軍戸山学校」がありました。
陸軍戸山学校では陸軍の射撃、銃剣術、軍刀術などの歩兵戦技が教授されていたという。
箱根山の麓には、陸軍戸山学校址の記念碑が建っています。
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また陸軍戸山学校址記念碑の近くには六角形の謎のモニュメントがあります。
これは陸軍戸山学校の野外音楽堂跡で、陸軍戸山学校に所属していた陸軍戸山学校軍楽隊が使っていたものだそうです。
しかし木々に囲まれたこの地域では、音響効果はあまり良くなかったとか。
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さらに箱根山の南側には黒い重厚な建造物の上に乗っかっている、白い戸山幼稚園の建物があります。
黒い建物は、かつては陸軍戸山学校の将校用会議所であったと言われています。
本日はその周辺を、戸山幼稚園の園児たちが元気に走り回っていました。
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戸山公園から南下していくと都営戸山ハイツアパートがあり、さらにその先を行くと大久保通りに出ます。
大久保通りを挟んだ向かい側には、総務省所管の独立行政法人統計センターがあります。
ここ独立行政法人統計センターが建つ敷地には、かつて陸軍砲工学校という陸軍の砲兵科、工兵科将校専門の科学技術教育を目的とする陸軍の教育機関があったという。
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こちらは昭和5(1930)年ころの陸軍戸山学校周辺の地図です。
陸軍戸山学校の南側に陸軍砲工学校があります。
陸軍砲工学校の開設は明治22(1889)年5月のことで、今の独立行政法人統計センターから都営大江戸線若松河田駅近くにある警視庁第八機動隊まで、かつては陸軍砲工学校でした。
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独立行政法人統計センター敷地と大久保通り国立国際医療研究センター前バス停近くの歩道との境界線には、今も当時の軍用地境界標石が埋まっています。
よくある「陸軍用地」タイプではなく、縦書きで二列に分かれて「陸軍省所轄地」と記載されているものでした。
これはおそらく帝国陸軍の軍用地境界標石の中でも、最古参の軍用地境界標石に属するものと思われます。
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明治36(1903)年刊行の「日本陸海軍写真帖」に掲載された陸軍砲工学校の写真。
陸軍砲工学校は当初陸軍の砲兵科、工兵科の将校のみが入学できた学校でしたが、日中戦争の影響などから全兵科において科学技術の修得が求められるようになっていくと、昭和14(1939)年には憲兵科を除く全兵科の入学が可能になりました。
陸軍砲工学校は昭和16年8月には陸軍科学学校に改称され、太平洋戦争の敗戦が迫った昭和19(1944)年10月に閉鎖されるまで機能していたそうです。
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統計センターの西側を走る一方通行路との境界線にも、同じタイプの軍用地境界標石が埋まっています。
陸軍砲工学校が陸軍科学学校となり、歩兵や騎兵、輜重兵等他科の陸軍将校に科学技術修得の機会が増えていったのは日中戦争開戦(1937)以後という。
逆に言えば、それまでの軍の技術研究は砲兵、工兵に任せきりとなっていて、これは海軍に比べ陸軍の科学技術があまり発展しなかった一因になっていたそうです。
陸軍砲工学校は、戦前の陸軍に蔓延していたという作戦優先主義、科学技術軽視、精神力でなんとかしろの空気を象徴するものと言えるのかもしれませんね。
(訪問月2018年3月)