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荒川区南千住の軍需工場跡地、千住製絨所跡を息子とともに歩いてきました。
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かつて、現在の都電荒川線三ノ輪橋停留場と隅田川の中間くらいのところに、千住製絨所という名の工場がありました。
千住製絨所は明治12(1879)年、明治新政府によって設立された官営工場で、陸軍所要の布地や毛糸等を製造していたという。
今回はこの千住製絨所跡地を訪問したいと思います。
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「とでん、のる!」
電車や都電に乗るのが好きな二歳の息子に引っ張られて、都電荒川線の終着駅、三ノ輪橋停留場にやってきました。
三ノ輪橋停留場は昭和30年ころをイメージしてデザインされたレトロ調の駅で、関東の駅百選にも認定され、停留場周辺では写真を撮っている人が多かったです。
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バラの咲き誇る三ノ輪橋停留場。
都電荒川線は最近、「東京さくらトラム」という愛称がつけられましたが、一般にはあまり浸透していないような気がします。
東京さくらトラムにしろ東武スカイツリーラインにしろ、それに乗る人の大半は飛鳥山スカイツリーに行くわけではないのに、なぜこうした名前がつけられるのかよくわかりません。
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三ノ輪橋停留場のすぐ北側には、ジョイフル三ノ輪という下町商店街があります。
なんだかシャッターが閉まっている店が多かったですが、これはまだ訪問時間が早かったからかもしれません。
平日の午前中ということ、都電の停留場直近ということもあり、アーケード内には高齢者の姿が目立ちました。
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ジョイフル三ノ輪を通り過ぎ、「安全横丁」と書かれた看板のある一方通行路を北上していきます。
事故が多いからこそ安全を名乗る看板があるわけで、安全横丁は狭い道にもかかわらず車両通行量が多くて危ない道でした。
ちなみに写真右上の不思議な形をした塔は、以前訪問した南千住の古刹・円通寺です。
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南千住警察署前の交差点を横断し、さらに一方通行路を北へ歩いていくと、やがてライフ南千住店前に到着しました。
店舗駐輪場には多数の自転車がとまっていて、午前中からなかなか繁盛しているようです。
このライフ南千住店のある場所が、今回の目的地である千住製絨所跡地なのです。
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千住製絨所はラシャ場とも呼ばれ、明治の富国強兵・殖産興業政策の一環として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために建造された官営工場です。
敷地面積は32,406坪に及び、千住間道を南限に、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
そしてライフ南千住店の店舗前には、イギリス積み工法で構築された二つの古びたレンガ塀が残っています。
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レンガ塀の前に、荒川区教育委員会が設置した解説板があります。
これによると、このレンガ塀は前述の千住製絨所の敷地を取り囲んでいた東側のレンガ塀であるという。
レンガ塀の建設年代は、明治44(1911)年から大正3(1914)年ころと推定されています。
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ライフ南千住店前に残る二つのレンガ塀のうち、南側に位置する長さ8.8mのレンガ塀。
旧千住製絨所は内務省、農商務省、陸軍省へと所管が変わり、第二次世界大戦の敗戦後の昭和24(1949)年には大和毛織株式会社に払い下げられ、昭和36(1961)年に工場が閉鎖されています。
その後の平成22(2010)年1月、かつて工場を取り囲んでいたレンガ塀の一部が日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションの協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存されるようになったという。
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こちらは長さが9.9mの北側のレンガ塀。
このレンガ塀の一番奥には、旧千住製絨所の正門の袖柱が残っています。
つまりこのレンガ塀の先に、かつては千住製絨所の正門があったということにあります。
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また北側レンガ塀の足下には、地中に埋没した大きな石が五つ並んでいます。
この石は塀を保護するために車止めとして使われていたもののようです。
破損してしまったのか、今ではその一部が残されるだけとなっていて本来の形はちょっとよくわかりません。
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南千住に工業と商業の発展をもたらし、大日本帝国の近代化に大きな影響を与えたという千住製絨所。
大日本帝国の富国強兵・殖産興業政策で造られた官営工場といえば、平成26(2014)年に世界遺産にもなった富岡製糸場が有名ですが、千住製絨所は南千住の富岡製糸場とも言うべき存在です。
施設が現存していれば、今頃は世界遺産になっていたかもしれませんね。
(訪問月2018年5月)