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目黒区三田にあった軍用軌道、白金火薬庫軍用線跡地を歩いてきました。
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現在地は目黒区三田の目黒春日神社の境内です。
目黒春日神社は境内の狭い小さな神社ですが、都市部の神社らしくきれいに手入れされていました。
この目黒春日神社があるところは港区の三田春日神社の元地で、戦国期に太田道灌が神社を遷座しましたが、昭和9(1934)年に改めて当地に社殿を建立したという経緯のあります。
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目黒春日神社から目黒三田通りを北へ30mほど歩くと、住宅地を北西方向へ貫く細い路地が見えてきます。
目黒三田通りから左折して、この路地へ入っていきます。
車両進入禁止の標識がついており、道路は一方通行路となっています。
キャプチャ
さて、この地図は明治42(1909)年ころの目黒駅北側、目黒区三田周辺のものです。
明治13(1880)年から昭和3(1928)年にかけて、目黒区三田には東京砲兵工廠所管の目黒火薬製造所という軍需工場がありました。
また目黒火薬製造所から山手線の線路を挟んだ東側の白金台には、白金火薬庫という陸海軍の火薬倉庫もあり、今回の目的地である白金火薬庫軍用線は、地図上で赤いラインを引いた、二つの軍事施設の間で火薬運搬をしていた軍用軌道です。
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目黒三田通りから住宅地をストレートに貫通する生活道路へと入りました。
この道路が今回の目的地、かつて目黒火薬製造所~白金火薬庫間で火薬運搬をしていた軌道敷地であったと言われています。
一見してなんの変哲もない生活道路なのですが…
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しばらく生活道路をまっすぐ進んでいくと、右手の住宅と住宅の隙間に小さな階段があります。
ほんの数段しかないけどきちんとした手すりのついた石階段です。
この階段を、ちょっと降りてみます。
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すると階段途中の隅っこに、「陸軍」と記した石柱が30㎝ほど頭を出しているのが見えてきます。
これがおそらく、当時の軍用軌道の軍用地境界標石ですね。
中途半端な埋もれ具合から、軍用軌道はもう少し低地を走っていたものと推測されます。
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階段から再び生活道路に戻り、さらに北西方向へ進んでいきます。
正面左側に見える緑地は、目黒区立の茶屋坂児童遊園です。
このあたりも軍用軌道敷地と思われますが、記録が残っておらず具体的にどのあたりを通っていたのかわかりません。
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茶屋坂児童遊園に近い、左手のタウンハウスの駐車スペースの中にも軍用地境界標石が見えました。
こちらの境界標石ははっきりと「陸軍用地」と読めるだけでなく、側面に「38」と通し番号のようなものがついてます。
そういえば、豊島ドックの軍用地境界標石も番号がついていましたが、運搬系の軍事施設の境界標石は番号ありとか、そういうルールがあるんですかね。
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そのまま茶屋坂児童遊園の脇を通り抜けていくと、大きな通りに出ました。
通りの向こうの緑色屋根の施設は、水上艦の設計や潜水艦の静穏化研究などを行っているという防衛省艦艇装備研究所です。
明治時代、この場所には東京砲兵工廠目黒火薬製造所があり、ちょうど写真のあたりに軍用軌道の引き込み線があったと言われています。
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東京砲兵工廠目黒火薬製造所は目黒の都市化とともに昭和3(1928)年、群馬県岩鼻村へと移転し、跡地には海軍技術研究所が入って艦の設計や技術開発などが行われるようになり、その流れで今は防衛省艦艇装備研究所となっています。
この地の主管が陸軍から海軍に変わる数年前の大正6(1917)年、火薬の運搬先であった白金火薬庫が陸軍省から宮内省へと委譲され白金御用地となり、白金火薬庫軍用線はその役目を終えたものと思われます。
明治期から大正期にかけて、火薬製造の町だった目黒。
その運搬にあたっていた火薬軌道の軍用地境界標石は今も残り、当時の火薬の町目黒を伝えています。
(訪問月2018年6月)