練馬区光が丘にある戦争遺跡、成増陸軍飛行場跡を歩いてきました。
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練馬区光が丘と旭町、板橋区赤塚新町にまたがり、敷地が約60万㎡に及ぶ広大な都市公園・光が丘公園。
広大な都市公園と高層の光が丘団地が建ち並ぶ光が丘エリアは練馬区の中でも異質なエリアですが、この辺りはかつての太平洋戦争中、帝都防空のために設立された「成増陸軍飛行場」があったところでした。
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写真は国土地理院のホームページから抜粋した昭和19(1944)年撮影の空中写真です。
昭和17(1942)年4月18日ののドゥーリットル空襲に驚いた軍部は、当時の板橋区に帝都防空を担う飛行場を造ることを急遽決定しました。
昭和18(1943)年春に住民の立ち退きが行われると、飛行場は赤羽工兵隊豊多摩刑務所の囚人、朝鮮からの出稼ぎ労働者、動員学生など数千名による突貫工事によってその年の12月には「成増陸軍飛行場」として使用が開始されました。
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完成した成増陸軍飛行場は、1200メートルの滑走路を持った本格的な飛行場でした。
成増陸軍飛行場には第1航空軍第10飛行師団隷下の飛行第47戦隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備隊が駐留して本飛行場を基地としています。
航空機としては陸軍の二式戦闘機「鍾馗」や、後に大東亜決戦機と呼ばれた四式戦闘機「疾風」が配備されていたという。
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太平洋戦争後期の昭和19(1944)年7月、マリアナ諸島のサイパン島が陥落すると、帝都東京はアメリカ陸軍の戦略爆撃機B-29による空襲を恒常的に受けるようになります。
しかし一万メートル以上の高々度を飛来するB-29に対し、日本の戦闘機はたとえ同高度まで上昇しても攻撃の姿勢が保てず、これを有効に迎撃できませんでした。
これに対し第10飛行師団では装備や防弾設備を外した身軽な飛行機で高々度へ舞い上がり、B-29への体当たり攻撃を行う震天制空隊を編成し、成増陸軍飛行場から特攻機が出撃しています。
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空対空特攻には高度な技術が必要で、そうした技量をもつ貴重な搭乗員には生還が求められ、震天制空隊員はB-29への衝突後に10000mの高度から落下傘で脱出する離れ業を行ったという。
成増陸軍飛行場は大日本帝国の敗戦後アメリカ軍に接収され、米空軍住宅地グラント・ハイツに変身します。
アメリカ軍による同地の接収が解除されたのは、敗戦から28年が経過した昭和48(1973)年のことでした。
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グラント・ハイツ返還後の成増陸軍飛行場跡地は、光が丘公園と光が丘団地に生まれ変わり、公園や団地内には成増陸軍飛行場の遺構は残っていません。
しかし光が丘公園の北側、板橋区赤塚新町三丁目の住宅地の中に、飛行場時代に造られたコンクリート製の掩体壕が残っています。
飛行場の付近住民の中には、帝都上空でB-29に衝突する日本軍機を見たものもいるという。
B-29による無差別攻撃から国民を守るために、多くの若い命がここから高度10000mの大空に舞い上がり、命を燃やし尽くして散っていったのです。
(訪問月2018年8月)