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豊島区駒込にある都営霊園、染井霊園を歩いてきました。
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春には桜の名所になる都立染井霊園。
広大な敷地ながら巣鴨や駒込の駅から近いところにある染井霊園は、これまでも何度か散歩したことがあります。
今回は息子と二人東京スイミングセンターの近くを散歩していると、霊園内にて白い立派な塀を見つけました。
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塀は霊園の一画を囲っているもので、道沿いには門と門柱もあります。
白い塀の上部を見ると、塀の屋根にあたる部分のコンクリートが一部剥げていて、中から古びたレンガが顔をのぞかせていました。
コンクリート製の塀かと思っていたら、どうやらレンガ造りの塀だったようです。
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塀をよく観察してみると、他にも亀裂の走った箇所がありました。
亀裂から顔を出しているレンガは、かなりの年数が経っていそうな感じです。
いったいこのレンガ塀は、何を囲っているのでしょうか。
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門の先は関係者以外立ち入り禁止となっていたので、門の隙間から覗いてみます。
しかし中は木々がうっそうと茂っていて見通しが悪く、よく見えません。
ところどころに古びた墓石が確認でき、歴史のありそうな墓所です。
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墓所に隣接している「花吹雪広場」の竹柵の間から、墓所を見てみます。
やはり木々に阻まれてよく見えませんが、奥に鳥居が見えます。
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鳥居の先には巨大な土饅頭のような苔むした石が置かれています。
この墓所は明治時代に伯爵家となった旧平戸藩主・松浦伯爵家の墓所で、この石は松浦家第37代当主松浦詮の墓石だという。
廃藩置県によって肥前国平戸藩の最後の藩主となった松浦詮は、明治17(1884)年伯爵となり、死後染井霊園に葬られたとされています。
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肥前平戸藩主松浦家の墓所の裏側は、伊勢津藩主藤堂伯爵家の墓所となっています。
江戸期における藤堂家の墓所は現在の恩賜上野公園内にあり、この墓所は明治以降の藤堂家の墓所、旧伊勢津藩主藤堂伯爵家の墓所です。
旧伊勢津藩主藤堂伯爵家の墓所には、松浦詮と同じように伊勢津藩の最後の藩主にして、明治17(1884)年に伯爵となった藤堂高潔の墓石がありました。
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旧平戸藩松浦伯爵家墓所と旧伊勢津藩主藤堂家伯爵墓所は、古びた塀で境界が引かれていました。
この塀もところどころ上塗りのコンクリートが剥げていて、実際はレンガ塀であるとわかります。
染井霊園の開設は明治7(1874)年のことですが、これらレンガ塀はいったいいつごろからのものなのでしょうか。
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旧平戸藩松浦伯爵家墓所の見学後、さらに霊園内を歩いてみました。
すると霊園の中央を通る一方通行路のすぐそばに、背丈の低いレンガ塀に囲まれた墓所を発見。
レンガ塀は長手積みのもので、ところどころに亀裂が入っていて古そうです。
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こちらはどういった方の墓所なのでしょうか。
通路の一番近くにあった墓石を見てみると「故陸軍軍医中佐岩崎久蔵之墓」と記されています。
どうも太平洋戦争のニューギニア戦線において野戦病院の院長を務め、そこで亡くなった方のお墓のようでした。
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墓石の側面には次のように記されています。
支那事変及大東亜戦出征昭和十八年
六月十九日於ニューギニヤ島野戦病
院長勤務中戦病死行年三十九歳

昭和18(1943)年6月でニューギニア戦線というと、米豪軍が東部ニューギニアにあった日本軍の拠点、ラエ・サラモア地区に攻撃をしかけてきた時期ですね。
Japanese_aircraft_destroyed_near_Lae
昭和18(1943)年6月、ミッドウェイ海戦とともに太平洋戦争の天王山といわれたガダルカナル島の攻防戦に敗北し疲弊した日本軍には、東部ニューギニアにおける米豪軍の攻勢を押し返す力は残っていませんでした。
台湾高砂義勇隊などによる活躍もありましたが、日本軍は火力に勝る米豪軍に押される形でブナ、ラエ、サラモア、フィンシュハーフェン、ホーランジア、アイタペなど海岸沿いの要地を次々と失陥。
制空権・制海権も連合国軍に握られジャングルに退却した日本軍は、ニューギニアの魔境で補給もなく飢えと病魔を敵として戦うハメになってしまいます。
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ニューギニア戦線に投入された日本軍将兵約20万人のうち、生きて日本に帰れたのは約2万人にすぎず、そのほとんどが餓死や病死だったと言われています。
戦闘ではなく無謀で拙劣な戦略、戦術によって飢えと疲労と病に冒され、むなしく倒れていく無数の兵士たちを野戦病院長はどのようにみていたのでしょうか。
「死んでも帰れぬ」と怖れられた修羅の戦場ニューギニア戦線の戦没者のうち、8万人以上の将兵の遺骨は今も死の島・ニューギニアに残されたままとなっています。
(訪問月2018年9月)