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千葉県松戸市にある軍事遺跡、陸軍工兵学校跡を歩いてきました。
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息子とともに、JR常磐線松戸駅の東口にやってきました。
今回はこの松戸駅東口駅前にかつて所在していた、大日本帝国陸軍の軍事遺跡を訪問します。
駅東口を出ると正面に鳩のマークのイトーヨーカドー松戸店が見えます。
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イトーヨーカドー松戸店前にある松戸駅交差点から北へ道路を60mほど歩いていくと、右手に石を積み重ねて固めた擁壁が現れます。
この擁壁の端っこには、擁壁と隣の住戸との間を隔てる白いフェンスが建てられています。
白いフェンスの足元に、このブログではおなじみのものが埋まっていました。
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それは「陸軍」と記載のある、軍用地境界標石です。
境界標石の向きから、この先はかつて陸軍施設であったことがわかります。
ちなみにここから先は、相模台という台地になっています。
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軍用地境界標石からさらに道沿いに40mほど北へ歩くと、今度は階段が右手に見えてきます。
この階段を進むと、台地の上に建つ聖徳大学方向へ上がっていくことができます。
階段の横には「聖徳大学入り口」の看板がついています。
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階段の入り口と隣のビルの中間にあたる場所に、先ほどと同じように軍用地境界標石が埋まっていました。
こちらも「陸軍」と読める軍用地境界標石です。
下の方には「用」っぽい字もギリギリ読め、「陸軍用地」と記載があるものと思います。
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ここから階段を上り、相模台の台地の上へと登っていきます。
二つの軍用地境界標石の位置関係から、この階段があるところはすでに旧陸軍軍用地内と判断できます。
階段は鬱蒼とした木々に囲まれ昼でも薄暗く、女子大である聖徳大学への通用路としてはあまりふさわしくなさそうです。
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階段の中腹の右側に、またも軍用地境界標石が立っていました
こちらははっきりと「陸軍用地」と読める、大きな軍用地境界標石です。
この相模台の台地上にあった陸軍施設とは、何だったのでしょうか。
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それは「陸軍工兵学校」と呼ばれた軍の教育機関でした。
大正8(1919)年、塹壕戦の多かった第一次世界大戦を目の当たりにした陸軍は、工兵のより高度な技術研究を行うために、相模台にあった松戸競馬場の跡地に陸軍工兵学校を開校しました。
ここでは、道路や橋の建設、陣地の構築、爆破作業など様々な役割をこなす工兵に関する教育が行われ、多くの学生が卒業して戦地に赴いています。
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階段は途中でT字になっており、その角に当たるところにまた軍用地境界標石が立っています。
…あれ、この軍用地境界標石、記載文字の向きがちょっと斜めになっていて、右手の斜面の方を向いていますね。
この向きからすると、階段の右手にあった雑木林の斜面は陸軍用地ではなかったのでしょうか。軍用地は複雑な形になっていたのかもしれません。
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T字を右に曲がると、曲がった先にコンクリート剥き出しの無骨な建物があります。
この建物は陸軍工兵学校の倉庫跡と言われており、どうも軽油を保管していた軽油庫のようです。
扉は四つあり、すべて鉄製であったようですが、奥の二つは失われてしまったのかコンクリートブロックで塞がれていました。
扉の上には通気孔のようなものも見えますね。
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陸軍工兵学校倉庫跡前の階段を上ると、先ほどのイトーヨーカドー松戸店の裏手に出ます。
ここをまっすぐ進んでいくと松戸中央公園、左に行くと聖徳大学です。
この二つはともに陸軍工兵学校の跡地に造られたものですが、今回はこのまま直進して松戸中央公園へと向かいます。
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旧陸軍工兵学校の南西側は、戦後千葉大工学部となり、やがて千葉大が移転すると松戸中央公園となりました。
そのため公園内の西側には、陸軍工兵学校跡の碑が建てられています。
碑文は元陸軍中将宮原國雄の書で、内容を要約すると『相模台上には創設から敗戦までの27年間技術を研究練磨した陸軍工兵学校があったが、今は何もなくなってしまったので後世に記念碑を残す』というようなことが書いてありました。
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松戸中央公園南側の入り口には、立派な四つの門柱が建っています。
この門柱は旧陸軍工兵学校の正門にあった門柱で、今も当時のままの位置で、松戸中央公園の入り口として活用されています。
よく見ると本柱には、かつては表札をかけていたと思われるフックがついています。
この門柱は、第一次世界大戦に参戦し、戦勝国となったフランスをイメージしたデザインが取り入れられているという。
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門柱の右手には、公衆トイレのようなコンクリート造の小さな建物があります。
これは正門警備用の歩哨舎跡で、当初は木造でしたが昭和2(1927)年から昭和10(1935)年ころにかけてコンクリート造に変わったものだそうです。
ちなみに歩哨舎右奥で座っているお爺さんは、銀杏拾いに精を出していました。
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歩哨舎跡は中にも入れます。
ここに小銃をもった当番兵が見張りで立っていたのですね。
歩哨舎の中は、周囲が見渡せるよう三方に楕円形の穴が空いていました。
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続いて陸軍工兵学校正門前を走る道路を東へ進み、松戸中央公園の東側にある松戸市立第一中学校方向に向かいます。
松戸市立第一中学校も陸軍工兵学校の跡地に作られた中学校で、旧軍用地の東側を占めています。
陸軍工兵学校跡地は北側が聖徳大学、南西側が松戸中央公園、東側が松戸市立第一中学校といった具合に、他の軍用地活用の例に漏れず文教機関や大きな公園に変わっていますね。
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松戸市立第一中学校の東側、中学校の裏手にあたる場所にある土手の端に、にょっきりと境界標石が立っているのを見つけました。
境界標石は土手の端という地形のためか斜めになってしまっていましたが、右側面に「陸軍用地」と書いてあるのが見えます。
どうやらここが陸軍工兵学校の用地東端であったようです。ちょっと向きが気になりますが…
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陸軍工兵学校用地の東端を確認したのち、今度は陸軍工兵学校正門前の道路を西に進んで松戸市街地の方へ抜ける坂道「地獄坂」へと向かいます。
松戸中央公園と旧千葉地方法務局松戸支局廃墟の間を通る急勾配のこの坂は、かつて訓練場から帰校する工兵たちが最後にこの坂を駆け上がるのが地獄だったことから地獄坂と名付けられたという。
つまりこの地獄坂を下った先に、工兵の訓練場があったということになりますね。
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地獄坂の途中に、陸軍用地と書かれた軍用地境界標石を見つけました。
何故か文字の所が墨か何かで黒くなっており、文字がはっきりと見えます。
このあたりが陸軍工兵学校の用地西端にあたる場所であったようです。
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地獄坂を下りきり交差点に到達すると、左手に相模台公園へと登っていく階段があります。
相模台公園は昭和31(1956)年3月開園と、戦後の生まれですが古い公園です。
階段の周りは鬱蒼と木々が生い茂っていて薄暗く、およそ公園へのアプローチには見えません。
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階段の途中の右手に、記載文字が階段の外に向くようにして「陸軍用地」と記載ある軍用地境界標石が立っていました。
相模台公園は陸軍工兵学校の用地の外側ですが、このあたりは「校南作業場」という工兵の訓練場であったそうです。
ここで訓練を行った工兵が、先ほどの地獄坂を駆け登って、工兵学校へと帰っていったということなのでしょう。
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長い階段を登りきると、その先が相模台公園の広場となっています。
幼児であふれていた松戸中央公園に比べ、ジャングルジム、ブランコと申し訳程度の遊具があるだけで閑散とした相模台公園。
この公園は公園内にさらに下りの階段があり、上下二層構造の公園となっています。
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公園の上段にあたる小広場に、ぽつんと軍用地境界標石が埋まっていました。
…ここがかつての校南作業場の境界線だったのでしょうか。
こんな中途半端なところが? ちょっとよくわかりませんね。
公園整備の際に、取っ払われてもおかしくなさそうな場所にあります。
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また公園下段の大きな広場内には、妙な形をした砂場らしきものがありました。
しかしもうずっと昔から使われていないようで、中に入っているのは砂ではなく周りの土と同じ土です。
…ひょっとしてこれは、工兵の作業で何か使われていたものではないでしょうか?
何とも言えませんがね。
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そんな相模台公園の上段の隅っこには、忠魂碑が建てられています。
傍らに立つ解説板に、この「松戸市忠魂碑」は日清日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、シベリア抑留等で犠牲になった松戸市出身の将兵の慰霊碑と書かれています。
多くの犠牲を出したこれらの戦役等において、松戸市出身の将兵だけでも1220名が戦没したという。
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創設から敗戦にいたるまでの27年間、多くの将兵が松戸の陸軍工兵学校で教育を受け、そして戦場へと向かいました。
大日本帝国において、工兵学校はこの松戸にしかなく、その関係から松戸は当時「工兵の街」と呼ばれていたそうです。
ここ相模台には、当時の工兵学校の面影を残す門柱や倉庫跡、軍用地だったことを示す境界標石などが今もひっそりと残り、松戸がかつて「工兵の街」であったことを伝えています。
(訪問月2018年10月)