DSC_1047
北区志茂にある産業遺産、旧岩淵水門を歩いてきました。
DSC_1069
東京メトロ南北線赤羽岩淵駅を降りて、北区の岩淵町へ子供たちとともにやってきました。
岩淵町とお隣の北区志茂周辺は荒川沿いの都県境に位置し、町並みは昔ながらの住宅街といったところです。
このあたりは赤羽の中心JR赤羽駅から若干離れていて開発の波が遅いのか、町中にはけっこう味のある建物が残っています。
DSC_1067
こちらは志茂五丁目にある黒田機器株式会社東京工場の事務所。
麻布あたりにあったというイギリス人の邸宅を、黒田機器株式会社の先代社長が移築したものだという。
建築年代は昭和10年以前と言われており、大使館として使われていたこともあるそうです。
DSC_1035
赤羽岩淵駅から15分ほど北東に歩くと、新河岸川に架かる新志茂橋に着きました。
橋の先に見える建物は、荒川知水資料館「アモア」です。
国土交通省荒川下流河川事務所に運営されている資料館で、一般入館できます。
DSC_1058
荒川知水資料館は荒川の洪水、水害の歴史や自然環境などを紹介する資料館です。
入館料は無料で、荒川や荒川の洪水を防ぐための荒川ロックゲートなどについて学べます。
館内一階には荒川の生物の水槽コーナー、二階には荒川流域を投影したプロジェクションマッピングコーナーなどがありました。
DSC_1063
三階テラスには流水模型コーナーがあります。
スタートボタンを押すと、荒川を模した模型の上流から水が流れてきます。
それに対して、手動で模型の水門を開閉したりパーツを入れ替えたりして水の動きを操作することで、荒川ロックゲートの仕組みを学べる代物です。
DSC_1060
三階テラスからは、荒川ロックゲートのある荒川が望めます。
荒川の堤防はサイクリングをしている人が多く、河川敷にはバーベキューをしている人が多かったです。
木々の間から飛び出している赤い建造物は、今回の目的地である近代化産業遺産「旧岩淵水門」です。
DSC_1049
旧岩淵水門は現在の荒川と隅田川が分かれる分岐点に、大正5(1916)年から大正13(1924)年にかけて建造された水門です。
昔、荒川下流域は現在の隅田川の位置を流れていましたが、川幅が狭く、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。
そのため、明治44(1911)年から昭和5(1930)年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた荒川放水路を造り、洪水をこの幅の広い放水路から流すことにしたのです。
この荒川放水路が現在の荒川で、旧荒川下流域は隅田川に名称が変わりました。
DSC_1039
旧岩淵水門は、荒川の水量が増えすぎた際に水を荒川放水路へ流すために造られた水門です。
現在ではその役目は昭和57(1982)年に新たに完成した新岩淵水門に引き継がれ、旧岩淵水門の運用は終了しています。
しかしながら土木建築物としての価値の高さから、現在では東京都選定歴史的建造物に指定されるなど、近代化産業遺産として保存されています。
DSC_1041
旧岩淵水門からは、新岩淵水門が荒川下流方向に見えます。
旧岩淵水門がその色から赤水門と呼ばれるのに対し、あちらは青水門と呼ばれています。
荒川の水量が通常の際は水門は開けられており、荒川と隅田川、新河岸川をつないでいます。
DSC_1040
ちなみに旧岩淵水門は、水死体が集まる恐怖の水門として、帝都でも屈指の心霊スポットで知られるところです。
現在、旧岩淵水門は歩行者専用橋として使われており、橋を渡って荒川の真ん中にある荒川赤水門緑地に渡ることができます。
荒川赤水門緑地は旧岩淵水門が間近で見学でき、近隣住民の憩いの場となっているエリアですが、過去、ここで幽霊を見た人が続出したという。
DSC_1044
荒川赤水門緑地に行ってみましたが、緑地内には巨大な「草刈の碑」が建っていたくらいで、特に変わったところはありませんでした。
「草刈の碑」には「農民魂は先づ草刈から」と大きく書かれています。
これは昭和13(1938)年から昭和19(1944)年にかけて行われた全日本草刈選手権大会を記念して作られた碑らしく、日中戦争や太平洋戦争の最中、帝国中から集められた草刈のエキスパートが競い合い、当時は樺太から朝鮮まで帝国中からやってきた大観衆が荒川の堤防を埋めたという。
DSC_1045
全日本草刈選手権は、いったい何を基準に草刈りの優劣をつけていたんでしょうか。
刈り取った面積なのか、刈り取った草の重さなのか、刈り取った跡の整然さなのか、それとも選手が刈り取る姿の美しさを競っていたのか。
そのあたりはよくわかりませんが、戦争と混乱の時代に行われていた全日本草刈選手権大会に、ちょっとロマンを感じてしまいました。
(訪問月2018年10月)