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港区麻布十番にある商店街、麻布十番商店街を歩いてきました。
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東京メトロ南北線麻布十番駅直近にあり、一の橋から仙台坂にかけて広がる商店街、麻布十番商店街。
今でこそ多くの人でにぎわう商店街ですが、第二次世界大戦では昭和20(1945)年4月15、16日の城南京浜大空襲、同年5月25日の山の手大空襲という二度にわたる大空襲によって焼け野原になっています。
しかし敗戦の翌年にはバラックの店が建ち並ぶ「麻布十番マーケット」ができ、それを原型として今の商店街が作られてきました。
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麻布十番駅からパティオ通りを歩き、麻布十番商店街の中心付近に位置する多目的広場「パティオ十番」に到着しました。
この広場前には「きみちゃん像」という像が建っています。
きみちゃん像は赤い靴を履いていた女の子が、異人さんに連れられて異国へ行っちゃったという野口雨情の童謡「赤い靴」のモデル説がある少女「岩崎きみ」の像です。
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明治時代に生まれたきみちゃんは、3歳の時に貧困等の事情からアメリカ人宣教師夫妻の養女に出され、アメリカに行くことになっていたという。
ですが結局、きみちゃんは結核のためアメリカに行くことができず孤児となり、明治44(1911)年9月、9歳のころに鳥居坂教会の孤児院で一人寂しく亡くなってしまいました。
しかしきみちゃんを養女に出したお母さんはそのことを知らず、娘が異国の地で幸せに暮らしていると信じてきみちゃんのことを野口雨情に話し、そこから童謡「赤い靴」が生まれたと言われています。
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きみちゃん像の目の前には、南北に走る雑色通りが通っています。
麻布十番商店街は大通りである十番通りがメインですが、雑色通りもこの先にある麻布山善福寺の門前町として昔から賑わっていたそうです。
この雑色通りを南へ、この先にある仙台坂の方に向かって歩いていきます。
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雑色通りの西側には麻布山と呼ばれる小高い丘があり、麻布山善福寺はこの丘の端に位置しています。
特に善福寺南側の墓苑はかなりの高台になっており、最も高い所の標高は26.5mあるそうです。
太平洋戦争の末期、日本軍はアメリカ軍が本土に上陸してきたときに備え、この麻布山に本土決戦用の地下壕を構築しようとしたという。
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写真はきみちゃん像から雑色通りを南へ100mほど歩いたところにあるT字路で、麻布山側への通路の突き当たりにはウィスタリア元麻布という高級賃貸分譲マンションがあります。
前述の麻布山本土決戦用地下壕の入り口のひとつは、この辺りに造られていたと伝えられています。
昭和19(1944)年春ころから構築され始めたという決戦用地下壕は、麻布山善福寺の地下を貫通して現在の元麻布二丁目方面へ繋げる計画のもとに造られていたそうです。
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さらに雑色通りを南へ70mほど歩くと、また右手に通路があり、突き当りには高台の上に建つウィスタリア元麻布の擁壁が見えます。
このあたりにも地下壕の入り口があったと言われています。
麻布山地下壕は高さ2.5m、幅2.3mの地下壕で、総延長は200mあったといわれていますが、完成することなく終戦を迎えたと言われており実態は定かではありません。
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さらにそこから南へ70mほど進むと、右手に麻布山善福寺への参道が見えてきます。
善福寺の奥にそびえ立つ巨大なタワーマンションは、元麻布ヒルズフォレストタワーです。
古い寺院と後ろに建つ特殊な形のタワーマンションが作る新旧の景観は、ちょっと変わったものになっていますね。
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善福寺の参道右手には「柳の井戸」という井戸があります。
これは自然の湧き水で、関東大震災や城南京浜大空襲、山の手大空襲の際にはこの井戸が多くの人に水を与えたと解説板に書いてありました。
今でこそちょろちょろとしか水は出ていませんが、昔はもっと水が湧いていたそうです。
地下壕建設の際に、この湧水は影響がなかったんでしょうか。
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麻布山善福寺は、東京都では浅草寺、深大寺に次ぐ歴史をもつ古刹です。
しかし善福寺本堂は昭和20(1945)年5月25日の山の手大空襲で焼失し、現在の本堂は大阪八尾にあった寺院を移築したものです。
ちなみに善福寺にも太平洋戦争中は複数の陸軍部隊が駐留していたそうですが、この部隊が地下壕を設営していたかどうかまではわかりません。
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善福寺境内には昭和11(1936)年日米協会によって建てられたタウンゼント・ハリス顕彰碑があります。
善福寺は日本がアメリカ合衆国と日米修好通商条約を結んだ際に、初代駐日公使となったタウンゼント・ハリスが最初のアメリカ公使館を開設したところです。
タウンゼント・ハリス顕彰碑も空襲で破損してしまいましたが、昭和35(1960)年日米修好通商条約百年を記念して修復され、ここに展示されています。
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そんな善福寺の山門前の左手には、仙台坂の方に繋がる歩行者用の路地があります。
本土決戦を行うつもりであった日本軍は、麻布山決戦用地下壕構築の半年後くらいから長野県の松代地区に巨大地下壕松代大本営を造り始めています。
大本営は当時、米軍本土上陸にあわせて松代大本営に皇居や政府中枢機関を移転させる計画を立てており、麻布山決戦用地下壕はその前哨基地と機能移転までの時間稼ぎの役割を担っていたのでしょうか。
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善福寺前の路地から仙台坂に出ると、仙台坂の坂道にはやたら警察官がいることに気がつきます。
仙台坂の中腹には韓国大使館があり、ここの警備のために警視庁の機動隊が配置されているのです。
自衛隊機へのレーダー照射問題や徴用工問題など、日本と関係が良好とはいえない韓国の大使館がある仙台坂周辺は、右派系による抗議行動が多くなっているのでその警備のためのものでしょう。
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韓国大使館のあるところはもともと、江戸時代に仙台藩の下屋敷があったところで、これが仙台坂の名前の由来となっています。
明治以降は内閣総理大臣を二度務めた松方正義が所有していましたが、太平洋戦争の末期には海軍大臣・米内光政の仮住居(海軍大臣公邸?)となったこともあるそうです。
ちなみに昭和50年代、この周辺で海軍が構築したものと思われる大規模な地下壕が見つかって騒ぎになったことがあったそうですが、米内光政の仮住居があったことを合わせて考えると、ひょっとしたら麻布山の地下壕は海軍が構築したものだったのかもしれませんね。
(訪問月2019年3月)