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千葉県香取市佐原にある近代建築、与倉屋大土蔵を見学してきました。
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前々回の佐原の町並み見学の続きです。
小野川沿いに佐原の町並みを見学していくと、ちょうど重要伝統的建造物保存地区が終わるあたりに巨大な土蔵が見えてきます。
この土蔵は明治初期に酒醸造業を営み、その後醤油醸造業を戦前まで続け、昭和30年ころまで製粉業を営み、現在は倉庫業をしているという「与倉屋」の土蔵です。
与倉屋大土蔵は明治22(1909)年の建造といわれ、日本最大級の大土蔵と言われています。
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小野川から石尊山方向に歩いた先にあるT字交差点を右に曲がった先まで続いている与倉屋大土蔵。
コンクリート打ちっぱなしのような、のっぺりとした外観をしています。
与倉屋大土蔵の一般公開はされていませんが、公演や演奏会などのイベントや「佐原の山車行事」の祭囃子の稽古場として活用されているそうです。
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土蔵の外壁には、たくさんの折れ釘が取り付けられています。
昔はこの折れ釘に板やロープを乗せ、そこを大工が足場にして土蔵の壁や屋根の補修にあたっていたそうです。
土蔵の多かった今回の佐原訪問ではよく見かけました。
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こちらは与倉屋大土蔵の扉のうちのひとつです。
大きな錠前で鍵がかけられています。
この扉をくぐると、「小屋組み」という手法で複雑に梁をつなぎ、作業場を確保するため柱を最小限にする工夫がこらされた土蔵の内部が見られるという。
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大土蔵の先は与倉屋の敷地を取り囲む黒い木造の塀が建てられています。
私がこの与倉屋大土蔵を初めて知ったのは、ここが伊藤潤二原作の映画「死びとの恋わずらい」のロケ地となっていたからです。
映画ではこの黒い塀には、物語の鍵を握る重要人物、柴山龍介の捜索願が掲出されていました。
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ちなみにこの与倉屋大土蔵ですが、太平洋戦争末期には兵器庫として転用されていたことがあったそうです。
軍都なわけでもないこの佐原になぜ兵器庫が?と不思議に思って調べてみると、この近くにある香取市立佐原小学校(当時は、佐原町立佐原国民学校)に太平洋戦争末期、大日本帝国陸軍第152師団の司令部があったことがわかりました。
陸軍第152師団は昭和20(1945)年の太平洋戦争末期に、日本本土決戦に向けて急造された54師団のうちのひとつで、金沢で同年2月28日に編成された陸軍師団でした。
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香取市立佐原小学校は、与倉屋大土蔵の東側、目と鼻の先にあります。
この第152師団と与倉屋大土蔵の兵器庫転用との関連はわかりませんが、両方とも配備されたのは太平洋戦争末期というのが一致しています。
この第152師団の師団長は能崎清次という陸軍中将でしたが、この能崎中将の名を冠する「能崎事件」というのが昭和20(1945)年6月23日に佐原町で発生しています。
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与倉屋大土蔵から60mほど東へ歩くと、右手に石尊山を背にして建つ、旧香取市立佐原小学校第三校舎が見えてきます。
第三校舎は生徒数減少に伴い、現在は佐原幼稚園として転用されているようです。
この建物は昭和54(1979)年3月に建てられた校舎ですが、昔ここは佐原町立佐原国民学校第一部と呼ばれ、佐原小学校のホームページによるとここに昭和20(1945)年4月8日、護沢部隊という陸軍部隊が進駐してきています。
この護沢部隊こそが、先述の大日本帝国陸軍第152師団であり、ここに太平洋戦争末期師団司令部が置かれていたものと推測されます。
背後の石尊山には防空壕も掘られていたらしく、戦後は佐原小学校の小学生がよく探検していたとお聞きしました。
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旧香取市立佐原小学校第三校舎から小野川を挟んだ対岸には、広い校庭をもつ香取市立佐原小学校第一校地が見えます。
香取市立佐原小学校第一校地は昔、佐原国民学校第四部と呼ばれていたそうです。
佐原小学校のホームページでは昭和19(1944)年4月22日、少年団訓練を四部校庭において実施とありました。
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香取市立佐原小学校第一校地の西隣には、今は使われていない赤い屋根の旧佐原幼稚園の建物があります。
こちらは佐原幼稚園となるまでは、佐原国民学校の第二部であったそうです。
佐原小学校のホームページによると、第一部校舎を第152師団に接収された後は、第二部校舎で授業を継続したと記載されています。
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先に取り上げた能崎事件とは、昭和20(1945)年6月23日、日本本土を空襲したアメリカ陸軍戦闘機P51マスタングが帰還の際日本軍戦闘機に撃墜され、航空機から脱出したアメリカ軍将校が私刑殺害された事件です。
舞台となったのはここ旧佐原町立佐原国民学校で、パラシュートで脱出後に捕らえられたジョン・スキャンラン・ジュニア米陸軍中尉は第152師団司令部のあった佐原町立佐原国民学校一部校舎にトラックで連行されています。
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負傷していたスキャンラン中尉は、簡単な治療・尋問された後、司令部前庭に集まった町民の前に引き出されると、兵士たちから暴行を受けたという。
その後さらに司令部前庭には女性や子供、老人中心の数千人という群衆が集まったため、スキャンラン中尉は兵士によって司令部から小野川を挟んだ対岸にある広い校庭に移され、戦争で家族を殺され米軍憎しの町民たちから竹槍や棒などでリンチされることになってしまいました。
数時間あまりの暴行の末スキャンラン中尉は息絶えますが、怒りの収まらない町民は中尉の死後も遺体を叩き続けたという。
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スキャンラン中尉の亡骸は、佐原国民学校に近い浄国寺の無縁仏の共同墓地に、縛られたまま逆さに葬られたそうです。
この事件は戦後、能崎事件として戦勝国アメリカによって横浜軍事法廷で極東国際軍事裁判にかけられ、第152師団の参謀長や一部の佐原町民が実刑判決を受けています。
なおスキャンラン中尉の遺骨は戦後祖国アメリカへと返還され、アーリントン国立墓地に改葬されたそうです。
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浄国寺の境内には古い赤煉瓦造りの小さな建物がありました。
これは浄行菩薩殿という建物で、中には明治23(1890)年に酒造家の蓑輪氏が寄進した浄行菩薩石像が安置されています。
病気平癒に霊験あらたかとされ、多くの人が参詣しているそうです。
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敵国の軍人とはいえ負傷して無抵抗の捕虜を女性や子供、老人が集団で暴行殺害するという、悼ましい能崎事件。
しかし当時は一般人に対する無差別空襲など様々な事情があり、当時の日本人を責めることはできないかもしれません。
もう二度と、この国が戦争という病にかかることがないように、真摯な心で浄行菩薩石像にお参りをしたいと思います。
(訪問月2019年2月)