DSC_1349
北区浮間にある寺院、観音寺を歩いてきました。
20190221_133446
息子とともに、北区浮間の真言宗智山派寺院・観音寺にやってきました。
観音寺は元和元年(1615)年に開創・秀盛が開山したと伝えられる寺院で、埼京線北赤羽駅と浮間舟渡駅の中間あたりにあります。
明治43(1910)年の大水害の際には、本堂が床上浸水したため、樽を二つ並べてその上に本尊を置いて一晩中守ったという。
BlogPaint
観音寺の境内に入ってすぐ左手に、吊られていない釣鐘が置かれています。
この鐘は観音寺境内に二つある釣鐘の内のひとつで、現在は使われていないほうの鐘です。
鐘の下にある台座には「應召の鐘」と書かれています。「應」は「応」の旧字体です。
DSC_1336
昭和16(1941)年、日中戦争の泥沼化によって大日本帝国は、武器生産に必要な金属資源が枯渇していました。
その不足を補うために、同年
8月30日、大日本帝国は金属類回収令の勅令を出し、全国から釜や銅像などの金属が武器製造のために供出させられました。
寺院も例外ではなく、このとき全国の寺院から鐘が供出させられ、観音寺からはこの鐘が「応召」されていったのです。
DSC_1341
しかしこの「應召の鐘」は、どういうわけか溶かされることなく、戦後に都内の別の寺から発見されています。
應召の鐘」台座には「昭和58年7月2日、仏縁に寄り帰る」と刻まれています。
應召の鐘」は供出から約40年を経た昭和58(1983)年、地元の人々の努力により観音寺に戻されたという。
DSC_1351
應召の鐘」の先は墓地になっていますが、なぜか鐘の周りにある墓は旧日本軍人のものばかりでした。
墓石には旧日本陸軍工兵隊上等兵、陸軍兵長、海軍水兵長といった階級の方々の名前が見えます。
詳細はわかりませんが、大正10(1921)年のシベリア出兵中に亡くなった方や、日中戦争、太平洋戦争中に亡くなった方の墓のようでした。
DSC_1339
寺院の歴史ある梵鐘を溶かしてまで、戦い抜こうとした第二次世界大戦。
しかしそれまで自分たちが大切にしてきたものを溶かして作った武器を使っても、この戦争に勝つことはできませんでした。
この金属類回収令によって、日本中の寺院の梵鐘の9割以上が第二次世界大戦期に失われたといわれています。
(訪問月2019年2月)