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八王子市田町に残る近代建築、田町遊郭跡を歩いてきました。
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現在地は八王子市大和田町の浅川に架かる橋、大和田橋の北詰です。
八王子市では太平洋戦争末期の昭和20(1945)年8月2日未明、市街地上空に侵入した180機のアメリカ陸軍戦略爆撃機Bー29によって、二時間の間に約1600トンの焼夷弾が投下される大規模な空襲がありました。
この大和田橋は、八王子大空襲と呼ばれたこの空襲において橋の下に多くの市民が避難し、その命を救った橋とされています。
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大和田橋の橋詰には、八王子大空襲について知らせる「焼夷弾・弾痕の保存について」という説明板が立っています。
八王子大空襲の被害は、約450名が死没、2000余名が負傷し、旧市街地の約80%の家屋が焼失するという甚大なものでした。
空襲で投下された焼夷弾の量は凄まじく、当時の市民一人あたりの投下量は10個であったと言われ、市街地から少し離れたここ大和田橋にも50個以上の焼夷弾が投下されたと推測されています。
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大和田橋歩道上には、その八王子大空襲で投下された焼夷弾の弾痕が残っています。
歩道上には二か所透明板で覆われた所がありますが、これが焼夷弾の弾痕とのことです。
しかし透明板は曇っていて、正直なんだかよくわかりませんでした。
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ここで昭和20(1945)年ころの地図を見てみます。(「今昔マップ on the web」より作成)
地図は八王子駅北側の八王子市街地を示しており、南に八王子駅、西に浅川に架かる大和田橋があります。
八王子市街の中心にあった八王子駅の駅舎も、この八王子大空襲で焼失してしまったという。
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続いて時代をさかのぼり、今度は明治39(1906)年ころの八王子駅北側の地図です。
大和田橋はますます市街地が遠くなって……というか、浅川周辺はみんな沼地や桑畑になっちゃいましたね。
そんな浅川の南岸の田畑の中、大和田橋から北西約1kmのところに、離れ小島のように家屋が密集する「新地」と書かれた地区があるのがわかるでしょうか。
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この地区はかつて「田町遊郭」と呼ばれた遊郭があった場所です。
田町遊郭は明治30(1897)年、八王子の横山町・八日町の甲州街道沿いにあった遊郭が、八王子大火で焼失したことを契機に市街地から離れた場所・田町に移転したことを始まりとし、昭和33(1958)年の売春防止法施行まで約60年間存続していた遊郭です。
現在の田町は住宅地となっていますが、田町地区中央には交通量と比較して妙に広い車道があり、これはかつての田町遊郭の大門通りの名残と言われています。
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田町遊郭には明治・大正・昭和を通じて、中央を走る150メートルほどの大門通りに約20軒の妓楼が並んでいたという。
浅川南岸の田畑の中に作られた田町遊郭は、八王子市街地から離れていたため八王子大空襲の被害を受けず、戦後も空襲で焼け野原となった八王子に残りました。
貸トランクルームの看板が立てられた写真の建物「福田荘」は田町遊郭の妓楼跡の一つで、かつては「福万楼」という妓楼だったそうです。
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旧福万楼から大門通りを西に70メートルほど進んだところにあるこの建物も田町遊郭の妓楼跡のひとつで、こちらは「大万楼」という名前だったようです。
今は個人の住宅として利用されているようで、二階の張見世があったと思われる所はすべて塞がれてしまっています。
妓楼建築の建物とその軒先に建つ黒塀、歩道に咲くピンク色のサルスベリがうまくマッチしていて美しい。
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現在の田町に残る遊郭跡の妓楼建築は上記の二つしか残っていません。
なお2014年1月に火災で全焼してしまいましたが、少し前まで旧福万楼の向かいにもう一軒、旅館に転業した妓楼建築が残っていたそうです。
残りはわずか二軒ですが、戦中の空襲、戦後の発展の著しかった帝都東京において、戦前の妓楼建築が残っているのはここ八王子市田町が唯一であり、戦前の帝都の遊郭の雰囲気を感じられる貴重な場所となっています。
(訪問月2014年6月)