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世田谷区桜丘の軍事遺跡、陸軍機甲整備学校跡を歩いてきました。
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現在地は、世田谷通りに面する東京農業大学世田谷キャンパスの正門前です。
太平洋戦争敗戦後の昭和21(1946)年、戦火により常盤松の校舎を焼失した東京農業大学は、昭和18(1943)年までこの場所にあった陸軍機甲整備学校の跡地に移転し再建しました。
軍用地に建てられた東京農業大学世田谷キャンパスの正門のこの古い門柱は、陸軍機甲整備学校のものだと言われています。
キャプチャ
上は昭和6(1931)年発行の世田谷区桜丘周辺の地図です。(今昔マップon the mapより作成)
中央にある「自動車学校」は、大正14(1925)年に設立した日本陸軍の憲兵を除く各兵科尉官、下士官に戦車や自動車といった機甲車両の整備の教育を行った軍学校「陸軍自動車学校」のことです。
昭和15(1940)年自動車学校から陸軍輜重兵学校が独立して目黒に移転すると、その翌年の昭和16(1941)年には自動車学校は陸軍機甲整備学校とその名を変えています。
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敗戦後、管理するものがおらず荒廃していたという旧陸軍機甲整備学校の跡地に再建された東京農業大学世田谷キャンパスに入構してみました。
東京農業大学世田谷キャンパスの学食は一般人も利用することができます。
写真は世田谷キャンパス17号館1階のカフェテリア食堂「カフェテリアグリーン」です。
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カフェテリアグリーンは丼ぶり、小鉢、みそ汁、デザートなど好きなものを取って会計で清算する形式の学食です。
時期限定品らしいかつおの旨辛漬け丼を注文しましたが、大学生協で大々的に売り出しているものらしく、この翌日に訪問した星薬科大学の学食「ステラ」でも同じものが販売されていました。
大学生協は安くて早くておいしいのですが、大学の特色が感じられないのがちょっと残念なところですね。
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カフェテリアグリーンで腹ごしらえをしたのち経堂門から出て、キャンパス東側を走る農大通りに出てきました。
農大通りを北上すると、左手に世田谷キャンパス北端にあるホッケー場が見えてきます。
ホッケー場の北側には狭い一方通行路がありますが、意外と車の通行量が多くて危ないです。
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ホッケー場の北東端には、塀の中に組み込まれたような焦げ茶色の門柱が建っています。
この門柱は、かつては陸軍機甲整備学校の裏門に使われていた門柱とのことで、現在も塀の一部として活用されているようです。
かつてはこの場所に陸軍機甲整備学校の裏門があったらしく、現在の農大通りは裏門から校舎へと入る道だったと思われます。
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ホッケー場の北側を走る一方通行路を西へ歩いていくと、ホッケー場と隣接するマンションの境に立つ塀が見えてきました。
塀はもともとあったものを途中でぶった切ったような中途半端な大きさをしており、鉄筋がところどころから飛び出しています。
塀の側面には「世田谷区桜丘一丁目4」と記された街区表示板がついていました。
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その塀の足元には、境界標石が埋まっていました。
一見するとわかりませんが、よく見るとうっすらと「陸軍」と書いてあるのがわかります。
陸軍機甲整備学校の軍用地北端を示す軍用地境界標石であったと思われます。
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軍用地境界標石からさらに西へ100メートルほど進むと、左手に庚申塔が見えてきました。
この庚申塔は横根の庚申塔という名前で、安永8(1779)年と記載があり、江戸時代の四谷道、青山道、府中道、大山道の道標であったという。
庚申塔の台座は比較的最近に建立されたもののようで、昭和53(1978)年建立と刻まれていました。
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その庚申塔の足元にも、軍用地境界標石っぽいものが埋まっていました。
先ほどの軍用地境界標石と同じ線上にありますが、文字は風化して消失したのか何も書いていないようにも見えます。
庚申塔があることからこの辺りが陸軍機甲整備学校の軍用地であったか微妙なところですが、これも陸軍機甲整備学校の軍用地境界標石と解していいんでしょうか。
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今度は庚申塔から300メートルほど東へ進み、東京農業大学稲花小学校の北側道路までやってきました。
東京農業大学稲花小学校は2019年4月に開校したばかりの新しい小学校です。
小学校前に新たに設けられたと思われる歩道の東端には、これまた軍用地境界標石らしきものが残っています。
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こちらははっきりと「陸軍」と読める陸軍機甲整備学校の軍用地境界標石ですね。
小学校建設に伴い、撤去されてもおかしくなさそうだった場所にあるものですが、ギリギリ残されたようです。
こうした陸軍境界石の位置関係を見るに、ようするに陸軍機甲整備学校の敷地は東京農業大学(付属高校、小学校含む)の敷地とほぼ同じとみることができますね。
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東京農業大学稲花小学校の東側を走る道路を南下し、東京農業大学第一高等学校の通用門前までやってきました。
頂いた情報によると東京農業大学第一高等学校の校内にも軍用地境界標石があるそうで、この高校の敷地はそのまま陸軍機甲整備学校の軍用地と言えそうです。
この先は世田谷通りになっており、世田谷通りを右に行くと東京農業大学正門があります。
手前に見えるT字路の角、電柱の足元に境界標石らしきものがにょきっと顔を出しています。
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こちらも「陸」と読める軍用地境界標石です。
あれっ。ここも陸軍機甲整備学校の軍用地なのでしょうか。
しかしここは東京農業大学第一高等学校の敷地から少し南側に離れた位置にあり、配置に少し違和感があります。
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その軍用地境界標石の北側を通る路地を少し西へ歩いていくと、今度は半ば埋没しつつもかろうじて「陸」と読める軍用地境界標石がありました。
この二つの境界石が守る世田谷区桜3丁目21番は、地図で見ると正方形の街区になっており、なんだか違和感を覚える地形です。
東京農大の敷地とも場所が若干違うため、ひょっとしたら陸軍機甲整備学校とは別の軍用地のための境界標石だったのかもしれません。
果たしてここになにがあったのか、それを想像するのはロマンがありますね。
(訪問月2019年5月)