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世田谷区代沢にある軍事遺跡、陸軍獣医学校跡を歩いてきました。
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現在地は池尻四丁目にある世田谷区立池尻見晴らし広場です。
池尻見晴らし広場は小高い丘の上にあり、この丘は騎兵山と呼ばれています。
その名はかつてこの地に、陸軍第一師団の騎兵第一連隊が駐屯していたことに由来します。
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騎兵山には高台の上に立つ高級マンション、マスタービューレジデンス西側にあるこの青い鉄製階段を上っていきます。
階段の入り口には何故か扉がついていて閂がかけられていますが、鍵はかかっていません。
しかし閂は錆びついていてなかなか開きませんでした。
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お世辞にも適正に管理されているとは言い難い、塗装が剥げたり赤錆の浮きまくったぼろい階段と通路を塞ぐように飛び出した植物。
虫もここに人がやってくることなど予想外だったのだろう、階段の先にある扉に近づいた瞬間一斉に多数の蝉が鳴きながら蜘蛛の子を散らしたように飛んでいきました。
階段出口にある扉の閂は、入り口にあった扉の閂よりもさらに錆びついていて、開けるのに少し手間取りました。
見晴らし広場に行くためなのに、どうして閂を二回も開ける必要があるのだろう。
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階段を上がった先には「騎兵第一連隊址」と書かれた表札のついた錆びついた鉄格子があり、その鉄格子の中に複数の石碑が建立されていました。
正面にある一番大きな石碑は、明治27(1894)年の日清戦争と明治37(1904)年の日露戦争における騎兵第一連隊の戦病没者を祀る表忠碑(忠魂碑)です。
日清戦争と日露戦争、犠牲は多かったにせよどちらの戦争も勝ったものであるだけに、ひときわ大きな忠魂碑ですね。
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忠魂碑の左手には、かろうじて「戦没者慰霊」「支那事変 大東亜戦争」とよめる木碑も建っていました。
こちらは主に第二次世界大戦における戦没者の慰霊碑のようですが、文字が薄れていたり一部朽ちてしまっていたりと粗末なものです。
第二次世界大戦の戦没者慰霊碑が粗末なのは、第二次世界大戦が惨めな敗戦だったことに加え、戦後のGHQによる非軍事化政策によって大きな石碑が建てられなかったのでしょうか。
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忠魂碑右手には「騎兵第一連隊創設百年記念」と題された騎兵第一連隊会による碑板も設置されておりました。
騎兵第一連隊の創設は明治6(1873)年で、連隊創設以来の経緯が記されています。
日清戦争、日露戦争、日中戦争と主に中国大陸における各種作戦で活躍した騎兵第一連隊ですが、最終的に部隊は大陸から太平洋戦争末期のレイテ決戦に投入され、昭和20(1945)年1月、圧倒的なアメリカ軍の前に壊滅・玉砕してしまいました。
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また忠魂碑手前には、おそらくかつては花などが供えられたと思われる石の祭壇が置かれていました。
祭壇の真ん中に、なぜか幼児用のものと思われるポケットゲームが供えられています。
ちょっと古いもののようですが、ここはこっそり子供の遊び場になっているんですかね。
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忠魂碑の右後ろには、もう一つ小さな石碑が建立されています。
この石碑は明治29(1896)年6月30日の建立当時騎兵第一連隊長だった秋山好古陸軍中佐が揮毫・建立した「征清之役戦死者哀悼碑」で、日清戦争で戦死した部下の哀悼の碑です。
明治26(1893)年に騎兵第一大隊長に任官した秋山好古は、自ら訓練した騎兵隊を率いて日清戦争を戦い、敵を撃破して戦争の勝利に大きく貢献し「日本騎兵の父」と呼ばれました。
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騎兵山前の道を北へ約350m、徒歩5分ほど歩いていくと淡島通りが走っており、通りの向こうには駒場学園高等学校があります。
駒場学園高等学校のある場所には太平洋戦争の敗北まで、陸軍の獣医部将校の養成を目的として動物を使用した医学の研究などを行っていた陸軍獣医学校がありました。
後に病馬廠(馬の病院)としての業務も行っており、硫黄島で戦死した1932年ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト、西竹一(バロン西)陸軍中佐の愛馬ウラヌスも、西の死後、後を追うようにここ陸軍獣医学校で亡くなったという。
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もともと陸軍獣医学校は目黒の陸軍乗馬学校内にあり、この時先述の秋山好古も陸軍乗馬学校長をしながら陸軍獣医学校長を兼務していましたが、獣医学校は明治42(1909)年12月ここ代沢地区に移転してきています。
駒場学園高等学校の淡島通り側敷地内には、そのことを知らせる軍馬碑と陸軍獣医学校跡の碑があります。
学校の敷地内になりますが、守衛室の目の前ということもあり守衛さんに一言声をかければ問題なく見学できます。
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軍馬碑の下部には駒場学園高等学校校長による碑文が記されています。
第二次世界大戦において、多くの俊馬が軍馬として中国大陸や東南アジア等に徴発されていきましたが、一頭も帰ってくることなくかの地で没したと書かれています。
第二次世界大戦で徴発され戦地に赴いた軍馬は、70万頭から100万頭にも上ったと言われています。
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駒場学園高等学校の東側を走る生活道路にやってきました。
この先は世田谷区立富士中学校へ通じています。
また生活道路を挟んだ反対側には、きらり代沢保育園という2019年4月1日に開設したばかりの私立保育園があります。
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事前に聞いていた話では、この保育園の敷地外縁、写真奥に見える曲がり角の辺りに陸軍獣医学校の軍用地境界標石があるとのことでしたが…
保育園の建設工事に伴い、ものの見事に取り払われてしまったようです。
園児がつまずいて転ぶ可能性があるからでしょうか。
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同じ世田谷区でも、東京農業大学稲花小学校前の軍用地境界標石のようになんとかうまく残してくれたらなあ……。
場所が悪かったのでしょうか。
ちょっとがっくりしてしまいましたが、道の先にある世田谷区立富士中学校の擁壁の下にある草むらの中に、もう一つ軍用地境界標石が残っています。
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「陸軍省所」とまで読める陸軍獣医学校の軍用地境界標石で、おそらく陸軍省所轄地と記載があるものと思います。
騎兵連隊が近くにいたこともあり、軍馬との関わりが深く病気の馬の治療などにあたっていた陸軍獣医学校。
自分たちが治療した馬が、大陸や南方の戦地から一頭も帰れなかった戦争の現実を、当時の獣医たちはどう思っていたのでしょうか。
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陸軍獣医学校の軍事遺跡見学後は、駒場東大前の駅から京王井の頭線に乗って帰りました。
軍事遺跡とはまったく関係がありませんが、駒場東大前駅の西口前には、国家公務員合同宿舎駒場住宅の廃墟が建ち並んでいてちょっと不気味です。
私は今から7、8年前、駒場東大前の駅を頻繁に利用していたことがあり、そのころからここはすでに廃墟化していて異様だった気がしますが、まだ廃墟のままだったんですね。
(訪問月2019年8月)