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足立区大谷田にある歴史博物館、足立区立郷土博物館を歩いてきました。
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足立区立郷土博物館は、現在の足立区の姿に通じる江戸時代以降の足立のあゆみと特徴を紹介する博物館です。
最寄り駅は東京メトロ千代田線北綾瀬駅ですが、そこから徒歩20分くらいかかるので車利用の方が良さそうです。
なお綾瀬駅、亀有駅、八潮駅からバスが出ています。
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博物館の前庭には、庚申塔や記念碑など石造物が屋外展示されています。
写真は旧千住新橋の親柱です。
上の方がだいぶ黒ずんでいますね。
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200円の入館料を支払って館内に入ると、正面にまず子どもホールがあります。
巨大な棚には実際に触って遊べる「体験ボックス」や様々な収蔵品が展示されている「賑やかラック」などがあり、子どもが楽しめそうなものがあります。
ホールはお座敷風になっており、休日などにはここで子供が遊んだりするんでしょうか。
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ラックの中段にある「発見引き出し」を開けてみると、軍人将棋が出てきました。
右上の解説によると「戦争中に考え出されたむかしのゲーム」とあります。
太平洋戦争の敗戦とともに消えていったとされる軍人将棋ですが、昔の子供はこれで遊んだんですね。
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別の発見引き出しを開けてみると、こちらは戦時国債。
昭和15(1940)年大日本帝国政府発行、支那事変(日中戦争)遂行のための戦時国債のようです。
何でもいいですが、子供が見てこれを理解できるんでしょうか。
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楽しくなって発見引き出しを開けまくってみると、防空演習写真帖が出てきました。
これを子供が見て、どう楽しめばいいんでしょうか。
まあ、私は楽しいですがね。
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足立区博物館の第一展示室は、江戸東京に近接した農村だった足立の歴史が展示されています。
展示室には肥溜めの模型なんかがありました。
足立では農業に、肥料として都市から出される下肥を豊富に使うことができたそうです。
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こちらは下肥の運搬に使った肥桶(コエタンゴ)。
ひとつの桶におよそ36リットル入り、二つの桶を担ぐと80キロほどになるという。
ちなみに日本軍歩兵の標準完全軍装は約28キロの重量となっており、その約三倍ってことですね。
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二階にある第二展示室には、戦後の東京の人口急増に対して、東京都が供給した都営住宅の1分の1モデルが展示されています。
一軒を二戸が利用する棟割長屋という、木造平屋建ての都営住宅。
足立区をはじめ葛飾区、江戸川区には同一形式の棟割長屋が大量に建てられ、その頃の都営住宅の代名詞であったという。
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住人の息遣いが聞こえてきそうな棟割長屋の内部。
都営住宅には勤め人のほか、住宅を仕事場とする職人や内職をする主婦が入居し、近隣の工場の仕事を請け負っていたという。
やがて都営住宅は、生活様式の変化などにより鉄筋コンクリートのアパートへと姿を変えていきました。
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博物館2階は第二展示室のほか、通路が展示ギャラリーになっています。
こちらは展示ギャラリーの三八式歩兵銃訓練用模擬銃。
銃床の焼印から太平洋戦争中、竹ノ塚・保木間地域にあった「渕江青年学校」で用いられた訓練用の模擬銃です。
銃身は模造で発射機能はありませんが、遊底とレバー、引き金、照門などの機構は作動するようになっています。
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足立区域に対するアメリカ陸軍戦略爆撃機B29による空襲について知らせる展示パネル。
昭和19(1944)年7月、連合国軍がマリアナ諸島を占領すると、帝都東京はアメリカ軍の爆撃機B29の航続圏内に入り、同年11月から足立区を含む東京周辺は空襲を受け続けました。
足立区では終戦まで13回以上の爆撃を受け、ほぼ全域にわたって被災、特に南部の市街地は多くが焼失する損害が出ました。
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東京近郊の農村地帯に配置された、帝都東京を空襲から守るための高射砲陣地の展示パネル。
足立区には東京北部方面の防空を担った高射部隊が配置され陣地が設けられました。
陣地には敵機を撃墜する高射砲を備えた高射砲陣地と、夜間空襲に備えるサーチライトを備えた照空灯陣地がありました。
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足立区の高射砲陣地、照空灯陣地、戦災焼失地、B29墜落地点マップ。
高射部隊の攻撃や日本軍機の迎撃で、区内には入谷町や嘉兵衛町(加平)、荒川各地に計3機のB29が墜落しています。
10000mという高々度を飛来してくるB29に対し日本軍は有効な迎撃手段をもたず、苦肉の策として陸軍戦闘機「屠龍」などが体当たり攻撃を敢行しています。
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保木間2、3丁目にまたがる地域にあった保木間高射砲陣地で使用されていた弾薬筒収納箱。
12要と箱の側面に書いてあるので、三式12cm高射砲の弾薬筒収納箱でしょうか。
その手前には、8cm高射砲弾薬莢(右)とB29が投下したM69小型焼夷弾(左)が置かれています。
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こちらは日本軍の迎撃によって、現在の舎人公園の辺りに墜落したB29のプロペラです。
昭和20(1945)年5月25~26日の東京空襲の時、B29の1機が入谷町(足立区入谷)に墜落しました。
撃墜されたB29♯44‐69728号機の隊員はパラシュートで降下後、さらに墜落地点近くの地元民2名をピストルで射殺したという。
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こちらは同じく足立区花畑に墜落したB29♯42-63517号機の搭乗員を慰霊するための碑で、昭和21(1946)年12月25日に日本人の手によって建立されたものです。
「B29の勇士たちここに眠り平和の使徒として自由と正義を真實に展開せし勇士たちよ安らかに憩へ」と刻まれています。
無抵抗の一般市民に焼夷弾を落としまくる平和の使徒というものがいるのかと疑問に思いますが、これは敗戦直後という時代背景からくるものでしょうね。
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そのB29が投下した、主に油脂性の発火剤が装填されたM69小型焼夷弾。
地上700mの地点で親弾から38発の小型焼夷弾が散開し、点火して火の槍衾となり帝都を焼き尽くした兵器です。
この小型焼夷弾は千住新橋付近で採取されたもののようです。
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空襲マップを見ると千住新橋は北詰辺りが被害を受けていますが、旧千住新橋自体も言問橋のように焼夷弾攻撃を受けたんでしょうか。
そういえば最初に見た旧千住新橋の親柱は一部が黒ずんでいましたが、これは猛火によるものかもしれませんね。
足立区立郷土博物館では、帝都北部の防空を担った足立区における空襲の歴史を学ぶことができ、小さな博物館ですがオススメです。
(訪問月2019年9月)