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栃木県下都賀郡壬生町にある軍事遺跡、壬生陸軍飛行場跡を歩いてきました。
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子供たちを連れて、壬生町国谷にある壬生町おもちゃ博物館にやってきました。
壬生町は1960年代に玩具工場が相次いで誘致され、あわせて工業団地が造られた町です。
壬生町おもちゃ博物館はそんな壬生町の歴史にちなみ、町立で建設された玩具企業博物館です。
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壬生町おもちゃ博物館1階はきっずらんど、体を使って遊ぶゾーンになっています。
ボールプールや大型遊具「きんぐとくぃーん」で遊びまくる我が家の子供たち。
きっずらんどの隅には大人が座る椅子があるのですが、そこでは平日は仕事で疲れ休日は子供に引き回されているであろうお父さんが、死んだ魚のような眼をして子供を見守っています。
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2階はきっずたうん、展示・体験ゾーンになっていてブリキのおもちゃなどが展示されています。
こちらでも端っこには、「みんなの広場」にて娘を遊ばせているお父さんがこんこんと深く眠っていました。
その姿はまるで、水も食糧も弾薬もなく戦い疲れ果てて、うずくまったまま動かなくなってしまった日本兵のようです。
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きっずたうんは複数の展示ゾーンに分かれていて、こちらは「おもちゃのまち」の展示ゾーン。
中央には、我が家にもあるシルバニアファミリーの巨大な展示があります。
そしてそれを囲む円形の通路には「おもちゃのまち」についての展示がありました。
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こちらは「おもちゃのまちの誕生(1)」の展示パネルです。
壬生町の「おもちゃのまち」は、その由来が昭和30年代の帝都の墨田区や葛飾区にあった数多くのおもちゃ工場にあります。
東京下町のおもちゃ工場が、生産が盛んになってきたことに伴い、生産設備や工場の拡張のために壬生町へ移転してきたのです。
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「おもちゃのまちの誕生(2)」の展示パネル。
昭和39(1964)年、壬生町で工場団地建設工事が始まり、昭和40(1965)年におもちゃの工場団地ができました。
おもちゃの工場団地ができた国谷地区は、荒地から宇都宮飛行学校・飛行場に、そして戦後は開拓地として変わってきましたが、我が国の近代化・工業化に伴い工業団地へと変化しました、と記載されています。
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というわけで、おもちゃ工場団地ができる前は壬生陸軍飛行場があったとされる壬生町の国谷地区にやってきました。
こちらは東武宇都宮線国谷駅から徒歩11分の位置にある壬生町営住宅、ひばりが丘団地の駐車場です。
その向こう、駐車場の西隣には荒地となっている広大な壬生町の管理地があり、関係者以外立ち入り禁止になっています。
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壬生陸軍飛行場は、太平洋戦争後期の昭和19(1944)年に宇都宮陸軍飛行学校の壬生分教所として開設されました。
町営ひばりが丘団地の敷地内には、なぜかひとつだけの背の低い門柱がにょっきりと建っています。
これは当時、この辺りに飛行場に関係する陸軍の兵舎が置かれていたため、それに関連するものではないかと言われています。
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ひばりが丘団地の東南東方250mの位置には、巨大な石碑が建っていました。
敗戦後、管理していた陸軍が消滅し荒地となっていた壬生飛行場跡地を開拓した壬生開拓団によって建立された石碑のようです。
裏面には壬生町開拓の歩みが刻まれています。
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太平洋戦争が終わった翌年の未だ世情混沌としていた昭和21年1月15日、我等同志は元壬生飛行場に入植し、350ヘクタールの広大な原野の開拓を期しここを再起の地として骨を埋める事を誓い合った。
それから幾星霜、困苦欠乏と厳しい風雪に耐えながら泥まみれの開墾作業を続け、開拓基盤を整備しつつ営農形態を確立するなど、不撓不屈の開拓精神を以って日夜弛まぬ努力を重ね、言語に絶する苦難を乗り越えながら精魂を傾けて開拓農業に専念した。
かくて幾多紆余曲折の変遷を経て、長年にわたる新天地創造の成果が、ついに無から有を生む事となって、さしも困難な開拓事業を完成させ、やがて名実共に県下一を誇る開拓地を創りあげる事が出来た。
歳月は流れて漸く国の復興もなり、幾多の辛酸と心血を注いで拓いたこの地も高度経済成長の時代に対応することとなり、戦後の激動を乗り切った開拓団を発展的に解散して、35年にわたる開拓の歴史を閉じることになった。
ここに戦後再起を期して歩んだ我々一団の足跡が、悠久の平和と繁栄をもたらす事を祈念してこの碑を建てる。
 昭和56年1月15日

と記載されており、この場所が壬生飛行場の跡地であることは間違いないようです。
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壬生開拓団の碑から北北西方150mの位置には、当時のままの姿で唯一残っているという防火水槽の円形の跡があります。
この防火水槽は壬生陸軍飛行場の防火用水として昭和18(1943)年ころに造られた、コンクリートの円筒状の施設です。
壬生陸軍飛行場には滑走路の他、兵舎、掩体壕などが建設されており、その付属施設として複数の防火水槽がありましたが、現在残っているのはこの一か所のみとなっています。
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敵に向かって体当たり自爆攻撃を行う陸軍特別攻撃隊の練成場としても使われたという壬生陸軍飛行場。
特攻隊の隊員は若者ばかりで、戦争を始めた大日本帝国の上層部からすれば純粋な子供のような存在であったと思われます。
子供たちが特攻をしなければならないような事態になってもなお、「戦争はもうやめよう」と言い出すことのできなかった大日本帝国は、滅ぶべくして滅んだのかもしれませんね。
(訪問月2019年9月)