P_5
千葉県船橋市行田の軍事遺跡、海軍無線電信所船橋送信所跡を歩いてきました。
P_7
現在地は船橋市行田の都市公園、行田公園です。
この公園は県道9号線を挟んで東西に分かれる形になっていて、歩道橋により連結されています。
周辺の各駅からはちょっと距離がありますが、西船橋駅北口から京成バスが出ています。
キャプチャ
行田公園を含む周辺一帯はかつて、大正4(1915)年創建の日本海軍無線電信所船橋送信所があった所でした。
上の空中写真は、太平洋戦争中の昭和19(1944)年に大日本帝国陸軍が撮影した行田周辺の写真です(国土地理院のホームページから抜粋)。
ちょっとわかりにくいですが真ん中に大きな円形の道路があり、道路に囲まれた所々に鉄塔の建つ地帯が日本海軍の無線電信所です。
map
ちなみにこちらは現在の行田公園周辺の地図。
明るくなっているところは行田一丁目から三丁目までを示しています。
今は船橋海軍無線電信所の施設こそ無くなったものの、円形道路は当時のまま残っています。
P_6
こちらは円形道路のほぼ中心にある船橋無線塔記念碑です。
船橋海軍無線電信所には太平洋戦争中、高さ182メートルの大型鉄塔6基と中型小型鉄塔数基からなる鉄塔群がありました。
船橋海軍無線電信所は敗戦でアメリカ軍に接収された後、昭和41(1966)年に返還されますが、残っていた鉄塔群は昭和46(1971)年の行田公園開園の際に解体されてしまい、代わって記念碑が建立されています。
P_4
船橋無線塔記念碑の北側には、廃墟となった国家公務員住宅行田住宅が建ち並んでいます。
船橋海軍無線電信所跡地の円形道路内には、行田公園の他、UR団地、小学校や中学校といった教育機関、公務員宿舎といった大きな施設ばかりが作られています。
団地、公務員住宅、公園、教育機関と軍事施設跡に建てられるものの定番が揃っていますね。
P_10
P_8
円形道路の中にある船橋市立行田東小学校には、船橋海軍無線電信所の軍事遺跡が保存されていました。
「許可ナキ者ハ入ル可カラズ 海軍省」と刻まれた立ち入り禁止標石です。
小学校関係者がどこかから持ってきたもののようで、もともとは電信所入り口にあったものと思料されます。
P_9
こちらも同小学校敷地内にある「海軍用地」の軍用地境界標石。
三本とも正門を入って真っ直ぐのところにある円形の植込み内に保存展示されています。
ちょうど近くに学校関係者がおり、見学させていただきました。
P_2
外周には船橋無線塔記念碑のあたりを中心として、まるでコンパスで丸を書いたように円形の道路があります。
船橋海軍無線送信所は大正時代の創建当初、真ん中に高さ200メートルの半自立型の主塔があり、それを取り囲む形で高さ60メートルの副塔16基を配する形になっていました。
半自立型とは主塔から数本、副塔方向手前の地上に鋼鉄線を張るとともに、副塔へ電信線を延ばすもので、支線と電信線に架かる力の均衡を取るために支線台と副塔は主塔から等距離でなくてはならないものでした。
P_3
16基の副塔を主塔から等距離に配した結果、自然と副塔の配置は円形になり、その外周として円形道路が作られたようです。
そんな円形道路の外縁にはところどころに海軍の軍用地境界標石が残されています。
この軍用地境界標石は船橋市立船橋高等学校行田テニスコートの円形道路を挟んだ向かい側にある畑の中にありました。
P_1
こちらは京成トランジットバス諏訪神社バス停の近くにある軍用地境界標石です。
半自立型の鉄塔は日中戦争前後の昭和12(1937)年、近代戦に備えるべく大鉄塔6基等からなる自立型鉄塔に改造されることになりました。
そして船橋海軍無線電信所は、昭和16(1941)年12月2日5時30分、ハワイ・オアフ島のパールハーバーに停泊するアメリカ太平洋艦隊を奇襲するべく北太平洋上を航行中だった空母6隻を主力とする南雲機動部隊に対し、連合艦隊司令部からの「12月8日を以てハワイの米軍艦艇、基地施設を攻撃せよ」という暗号電「ニイタカヤマノボレ(新高山登レ)1208」を送信することになるのです。
P_11
行田の円形外周道路以外にも、軍用地境界標石が残されています。
この道は行田東小学校から写真右上に見えるルネ・アクシアムという巨大マンション方向に向かう畑の中の農道ですが、この道の途中にも「海軍」と読める軍用地境界標石が1基建っています。
今のルネ・アクシアムやイオンモール船橋店などが建つ船橋市山手一丁目1番地帯は、かつて海軍の航空機関連の部品を製造していた日本建鐵の軍需工場がありましたが、この農道は二つの軍事施設となんか関係があったりするんですかね。
P_13
「海軍」という文字と、海を表現しているのか波打つ模様が見える軍用地境界標石。
太平洋戦争の開戦数日前、洋上を航行中の海軍機動部隊に対し、船橋海軍無線送信所から真珠湾攻撃の暗号電が発せられ、399機の空母艦載機による運命の真珠湾攻撃が行われました。
この攻撃によって昇る太陽の帝国・大日本帝国は一気にその威光を太平洋中に広めることができましたが、貧弱な国力はやがて落日を迎え、帝国の滅亡まで再び夜明けを迎えることはできませんでした。
(訪問月2019年9月)