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墨田区横網にある博物館、江戸東京博物館を歩いてきました。 
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墨田区にある江戸東京博物館は、平成5(1993)年に開館した江戸東京の歴史や文化を展示する博物館です。
博物館の常設展は大きく二つ、展示の大半を占める江戸ゾーンと明治維新後の東京ゾーンに分かれています。
来館者は社会科見学と思われる学生さんや外国人観光客の姿が目立ちました。
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こちらは東京ゾーンにあった銀座煉瓦街遺構の煉瓦壁。
明治新政府は開化政策のひとつとしてロンドン、パリにならう「不燃都市」を企図し、明治5(1872)年2月、銀座から京橋、築地を焼き払った大火を契機に、銀座煉瓦街の建設に着手しました。
この煉瓦壁はその遺構で、昭和63(1988)年に中央区銀座八丁目のビル工事現場から偶然に発見されたものだそうです。
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こちらは東京ゾーンのもっとも目立つ位置にある縮尺1分の1の「朝野新聞社」の復元。
「朝野新聞」は明治7(1874)年に創刊され、社長の成島柳北、主筆の末広鉄腸らが新政府を辛辣に批評し、人気を博した新聞社です。
当時の銀座煉瓦街にはたくさんの新聞社が社屋を構え、朝野新聞社も銀座四丁目の交差点にありました。
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洗練された独自の文化を持つ江戸期、ヨーロッパ的な華やかさを持つ明治・大正期の展示を過ぎると、続いて暗澹たる昭和初期のゾーンが待っています。
こちらは昭和19(1944)年の縮尺1分の1「戦時下のすまい」の復元。
当時の東京下町地区によく見られた木造家屋の一室で、窓には空襲の爆風によるガラスの散乱を防ぐための紙が貼られ、電灯には明かりが外にもれないよう灯火管制用のカバーがかけられ、室内には鉄カブト、防空頭巾、空襲の情報を知るラジオなどが置かれています。
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太平洋戦争中の昭和17(1942)年4月18日のドゥーリットル空襲後、空襲による火災をくい止めるために、内務省から指示された各家庭で準備すべき防火用具一式です。
用水を貯めておく貯水槽や消火用の砂・土の袋、注水用のバケツ・手おけ、火を叩き消す必殺の火たたき、屋根に落ちた焼夷弾を突き落とす鳶口。
戦時中は防空法によりこんな極めて貧弱な防火用具の備えのもと、人々は逃げることを許されず命を投げ出して持ち場を守ることを義務付けられていました。
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太平洋戦争後期の昭和19(1944)年、当時大日本帝国領だったサイパン島が陥落すると、アメリカ軍は戦略爆撃機B29による日本本土への本格的な空襲を開始しました。
その年の12月3日、帝都東京は武蔵野町(現武蔵野市)にあった中島飛行機武蔵野製作所を中心にB29による爆撃を受け、約180名の犠牲者を出してしまいます。
写真はその空襲からの帰路、日本陸軍の戦闘機「飛燕」によって撃墜されたB29の12.7ミリ機関銃です。
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こちらはB29から投下された、主に軍事施設や工場への精密爆撃に使用されたM64高性能爆弾の不発弾(復元)。
当初アメリカ軍は軍事施設を対象とする精密爆撃を行っていましたが、やがて一般市民もろとも都市を焼夷弾で焼き尽くす無差別爆撃が行われるようになります。
東京への空襲は昭和20(1945)年になると熾烈をきわめ、東京を焦土と変え市街地の5割強が焼失し、罹災者はおよそ300万人、空襲・戦災による死者は11万人を越えました。
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こちらは昭和53(1983)年に解体された浅草国際劇場の天井裏で見つかり、墨田区の多聞寺で保管されていた鉄骨です。
浅草国際劇場は昭和20(1945)年3月10日に発生した東京大空襲で直撃弾を受け、天井の大部分が焼け落ちましたが、壁に近い部分の鉄骨は残りました。
戦後浅草国際劇場は復旧しましたが、物資不足のためにこの折れ曲がった鉄骨をそのまま利用しその上に屋根を組み上げていたそうです。
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こちらは焦土と化した帝都の状況を描いた鶴丸昭彦作の『父と娘』。
東京大空襲の直後、油脂焼夷弾の煙の影響で目が開かなくなった父を導いて歩く幼い娘の姿が描かれています。
貧弱な防火用具で持ち場を守ることを義務づけられた帝都の国民は、焼夷弾による火災旋風から逃げることも消火することもできず、猛火にまかれて悲惨な運命を辿ることになってしまいました。
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これに対し日本軍は、風船爆弾(気球爆弾)と呼ばれる新兵器でアメリカ本土に爆撃を加えようとしていました。
日本陸軍が開発した風船爆弾は、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った気球に爆弾と焼夷弾を乗せ、日本本土から偏西風に乗せてアメリカ本土を無差別爆撃する史上初の大陸間弾道兵器です。
風船爆弾は昭和19(1944)年11月から翌年4月まで、千葉、茨城、福島から9300個あまりが打ち上げられ、うち300個ほどがアメリカ本土に到達し、山火事を起こす、ピクニック中の民間人6名を爆死させるなどの戦果をあげています。
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日本軍が風船爆弾を飛ばしていたころアメリカ軍は、多額の研究資金を投じて原子爆弾の開発に成功していました。
戦中期展示の最後には、時の外務大臣重光葵と、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃を命じた陸軍参謀総長梅津美治郎の署名が入った大日本帝国の降伏文書のレプリカが展示されています。
国力が初めから違ったとはいえ、相手が原子爆弾を造っていた時に風船爆弾を造っていたようでは、この戦争に勝つことはほぼ不可能だったと言わざるを得ませんね。
(訪問月2019年10月)